明治憲法下の天皇制・・天皇機関説

明治憲法下の天皇大権を現憲法との質的違いを強調する立場では事実上の制約があったのと、法律上権限があるのとでは大違いだ・本質が違うということになるのでしょうが、
国民一般はそんな理屈ではなく、体感で天皇制を理解しています。
女性の地位を役員比率など単純集計して日本の女性の地位が低いと自慢する?論説が普通です。
メデイアが都市の優劣を偏った?指数化して調査した結果が時折発表されますが、いつも僻地の都市が上位に並び、大都市が劣位する調査結果です。
本当にその都市や農村が住み良ければ人口が増えるはずですが、人口減が進んでいる結果と合いません。
物事は特定の立場を有利化するために非合理な指数化しても意味がないということでしょう。
そのためにクオーター制をすべきという意見がありますが、そんなのはテスト問題を入手してその問題だけ猛勉強して有利な点を取ろうとするのと方向性が似ています。
女性が大事にされている実態で欧米と比べれば、日本が最も進んでいる・・何周回も先を進んでいます。
日本の家庭では女性が完全主導権を持ち、男の地位が低い分(基本的に阻害されています)穴埋め的に形式的に持ち上げられているだけです。
この辺は人権思想も同様で、人権が無視されすぎる社会が根底にあるから、フランスでは革命が起きたと繰り返し書いてきました。
日本では、乳幼児から弱者がとても大事にされる社会です・この結果、強いものの意見が通るわけではない・・公正な判断が最も尊重される社会になったのだと思われます。
強いからといって正しくない主張を押し付けられない社会です。
この辺が(米国も含めて)韓国や中国には理解不能・戦争に勝った以上は事実無根の主張でも強制できると思い込んで行動するところを日本人の正義感が許せないのが理解不能なのでしょう。
明治憲法下での天皇権力の実態を直視したGHQは天皇の戦争責任を追及しなかった(点はマッカーサーの功績です)し、長期に国民の支持を受けている天皇の権能・実態に合わせた憲法草案を提示していたことがわかります。
新憲法はこれを実態に合わせただけであって、戦前でもこの実態に合わせて天皇機関説が学問上の通説でしたし、昭和天皇自身それを支持していたのです。
だからこそ、現憲法はGHQによる事実上の強制とはいえ、国民意識に合致していたので、この分野(天皇制)に関する国民不満は(高齢化して耳が遠くなったかな?)一切聞こえてきません。
天皇機関説については以下の通りです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E7%9A%87%E6%A9%9F%E9%96%A2%E8%AA%AC

日露戦争後、天皇機関説は一木の弟子である東京帝大教授の美濃部達吉によって、議会の役割を高める方向で発展された。すなわち、ビスマルク時代以後のドイツ君権強化に対する抵抗の理論として国家法人説を再生させたイェリネックの学説を導入し、国民の代表機関である議会は、内閣を通して天皇の意思を拘束しうると唱えた。美濃部の説は政党政治に理論的基礎を与えた。
・・この論争の後、京都帝国大学教授の佐々木惣一もほぼ同様の説を唱え、美濃部の天皇機関説は学界の通説となった。
民本主義と共に、議院内閣制の慣行・政党政治と大正デモクラシーを支え、また、美濃部の著書が高等文官試験受験者の必読書ともなり、1920年代から1930年代前半にかけては、天皇機関説が国家公認の憲法学説となった。
この時期に摂政であり天皇であった昭和天皇は、天皇機関説を当然のものとして受け入れていた。
天皇主権説との対立点
天皇主権説 – 天皇はすなわち国家であり、統治権はそのような天皇に属する。これに対して美濃部達吉は統治権が天皇個人に属するとするならば、国税は天皇個人の収入ということになり、条約は国際的なものではなく天皇の個人的契約になるはずだとした[3]金森徳次郎によれば美濃部は、天皇の発した勅語であっても主権者たる国民はこれを批判しうるとしていた[2]。
国務大臣の輔弼
天皇機関説 – 天皇大権の行使には国務大臣の輔弼が不可欠である(美濃部達吉『憲法撮要』)。
天皇主権説 – 天皇大権の行使には国務大臣の輔弼を要件とするものではない(上杉慎吉『帝国憲法述義』)。
国務大臣の責任
天皇機関説 – 慣習上、国務大臣は議会の信任を失えば自らその職を辞しなければならない(美濃部達吉『憲法撮要』)。
天皇主権説 – 国務大臣は天皇に対してのみ責任を負うのであり(大権政治)、天皇は議会のかかわりなく自由に国務大臣を任免できる(穂積八束『憲法提要』)
。当時の岡田内閣は、同年8月3日には
「統治権が天皇に存せずして天皇は之を行使する為の機関なりと為すがごときは、これ全く万邦無比なる我が国体の本義を愆るものなり。」同年10月15日にはより進んで「所謂天皇機関説は、神聖なる我が国体に悖り、その本義を愆るの甚しきものにして厳に之を芟除(さんじょ)せざるべからず。」とする国体明徴声明を発表して、天皇機関説を公式に排除、その教授も禁じられた。

今の北朝鮮政府が連発する空疎な声明に似て、子供が喚いているかのような内容のない「過激」な単語を言い募るだけです。
「国体明徴」と言っても具体的内容のない感情論でしかありません。
当時の通説・天皇機関説によれば、輔弼が要件になっているので実質江戸時代や今と同じ(輔弼と助言承認の表現の違いがありますが)です。
倒幕の経緯から薩長政権にとっては「天皇は名目だけ」とは言えない・・観念論にこだわっていた点は、幕末の尊皇攘夷と同じです。
狂信的軍部が弾圧に動いたのですが、結局は軍部が壟断するだけ・天皇自身が複雑な政治をする実力がない以上は、天皇尊崇といっても文字通り狂信的願望にとどまる点は同じです。
上記の通り、新憲法と明治憲法では天皇の実質的地位や権能は変わっていないと思われます。
そうとすれば、今でも実質的意味の憲法に皇室典範が入っていると見るべきではないでしょうか?

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