アメリカの州・郡(County Government)と市町村の関係2

アメリカの場合、州の規模が大きいので隣の州で日常規制・ごみ収集方法が違ってもあまり関係がないと言えば分かり良いでしょう。
例えば、関東地方だけで7都県もありますが、アメリカの場合で言えばカリフォルニア州の何分の1です。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q116683326によると以下の通りです。

カリフォルニア州面積:411,045平方km
(日本の面積の1.1倍)

以上のように州(ステート)と連邦の成り立ち・・歴史が違う上に事実的な意味を持つ面積規模もまるで違うアメリカの州の連邦の政府に対する自治権を理想化して日本の小さな都道府県や市町村に当てはめる議論は間違いです。
アメリカの場合、主権国家内の自治権というよりは独立国の条約による連合体・・EU加盟国がマーストリヒト条約等に従う義務によって、もともと100%あった主権が制限されている関係と見るべきです。
上記歴史経緯や地理条件などを総合すると、州に対して郡(County Government)や市町村がどのような自治権を有しているかの研究こそが日本の自治の参考にすべき基準です。
以下はカリフォルニア州政治に関する17年10月7日現在のウィキペデイアの記事からです。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%AA%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%AB%E3%83%8B%E3%82%A2%E5%B7%9E%E3%81%AE%E6%94%BF%E5%BA%9C地方政府

「カリフォルニア州は郡に分割されており、郡が法的な州の小区分である[8]。州内には58郡があり、480の都市、約3,400の特別地区と教育学区がある[9]。特別地区は具体的な公共計画と公共設備を有権者のために運営し、「その境界の中で行政的あるいは所有者としての機能を果たすための州の機関」として捉えられている[10]。
地方政府の権限の詳細を支配下に置くために州議会は1963年にサンフランシスコ郡を除く全郡に地方機関結成委員会を創設した。」

その境界の中で行政的あるいは所有者としての機能を果たすための州の機関」ということは、要約すればこれと言った自治権がない・・州政府の末端行政機関であるかのような位置付けです。
別の記事を見ると郡は条例制定しても市の批准がないとその市内では適用できないというので相応の条例制定権があるようですが、上記カギ括弧書きの要約と合わせると州政府の下位機関としての行政執行を具体化する範囲程度のイメージです。
そこで各州と郡を一体として・・市町村の自治体との具体的な関係を見ていきます。
自治体とは何か?政府とは何か?となると意外に難しいのに気づきます。
昨日書いた通りアメリカは、もともと独立国家の連合体ですから、州内の統治をどうするかについて連邦憲法に何も書いていないことになります。
ですから州政府と郡や自治体との関係も州ごとに違うことを前提にする必要があります。
そもそも州の憲法事項になっているかを最初に問題にすべきでしょう。
https://www.mof.go.jp/pri/research/conference/zk079/zk079_02.pdfによれば以下の通りです。

2.2
地方政府の法的位置づけ10
地方政府は各州ごとに州憲法や州法によって規定されており、その種類や機能は一律に定義することができない。歴史的には、地方政府を州の一部局として自治の範囲を狭く解釈する見解と、州からある程度独立した組織として自治の範囲を広く解釈する見解との対立があった。
地方政府の機能や権限を狭く限定的に解釈する前者の代表としては、
「ディロンの法則(Dillon’s Rule)」と呼ばれる解釈基準がある。この基準によると、地方政府は州憲法や州法によって付与された権限のみを行使することができる。
一方で、地方政府の固有の自治権を主張する議論として「クーリー・ドクトリン(Cooley’s Doctrine)」が挙げられる。クーリー裁判官は1871年にミシガン州最高裁判所で、「州憲法による黙示の制限」によって地方政府の権利は州議会の権力から保護されており、「純粋にあるいは基本的に地方的な事務については、地方政府の法が州法に優先する12」と述べている。
・・・・このため、南北戦争の頃になると州議会の過剰な介入に反発した地方政府や住民が、地方の自治権を主張して各地でホームルール運動を起こすようになった。この運動が一定の成果を挙げて、各州の州憲法や州法において、人口等の一定の条件を備える地方政府に対する、州政府の介入を制限・禁止する規定や、州憲法や州法に違反しないことを条件に、地方政府に自治憲章を制定する権利を認める規定が定められることで、地方政府の自治が保障されるようになった。ただし、実際にはこの特典が得られる地方政府は限られており、また自治憲章に関する規定は州憲法や州法にもとづいている。自治憲章のための権限は、あくまでも州政府から地方政府への授権であり、州政府から独立した自治権を地方政府に与えるものではない。」

以上要するに州法で許容される範囲の自治権しかないということでしょう。
各州が自由に決めてきたとは言っても江戸時代の各大名家が周辺大名家のいいところを吸収模倣して行ったように時間の経過でおのづと共通化していきます。
アメリカでは学校制度から何か何までいろいろあって自由な国だという評価する人が多いですが、ただ発展段階が原始的〜初歩段階にあるからに過ぎないのではないでしょうか。

アメリカの州・郡(County Government)と市町村の関係1

日経新聞の10月4日夕刊1面には柏崎崎原発「合格」と大見出しで出ています。
あとは新潟県知事の同意を得られるかがテーマらしいですが、新潟県の同意が何故必要になったのかの疑問です。
「昔は越の国だった」という主張を始めるとは思えませんが・・?
新潟県も思うように原発反対で補助金をうまく取れなくなると「昔は中国の領土だった」という主張を始めるのでしょうか?
そこまで行かなくともあちこちの県が何かある都度エゴむき出しで行動するようになると、なにかあっても助け合いたい気持ちが薄れて民族一体感が次第に蝕まれていき、民族維持のために自己犠牲を厭わない勇猛果敢な精神がすり減っていきます。
これが中韓の狙いでしょう。
そもそも地方自治制度がなんのためにあるか?という疑問になってきます。
現在憲法改正論が(反対論を含めて))盛んですが、この辺で憲法で定める地方自治の限界・自体首長が、その自治体領域が日本の領土ではない(とは言っていませんが・・)かのような主張をすることが許されるかを議論する必要があるように思われます。
地方自治制度は、アメリカの意向で現憲法で導入された制度ですから、当然にアメリカの連邦と州の関係をモデルにしていると見るべきでしょう。
以下に比較紹介するように大日本憲法には地方自治の章節がありません。

大日本帝国憲法
目次
第1章 天皇(第1条-第17条)
第2章 臣民権利義務(第18条-第32条)
第3章 帝国議会(第33条-第54条)
第4章 国務大臣及枢密顧問(第55条-第56条)
第5章 司法(第57条-第61条)
第6章 会計(第62条-第72条)
第7章 補則(第73条-第76条)

日本国憲法
第八章 地方自治
第九十二条  地方公共団体の組織及び運営に関する事項は、地方自治の本旨に基いて、法律でこれを定める。
第九十三条  地方公共団体には、法律の定めるところにより、その議事機関として議会を設置する。
○2  地方公共団体の長、その議会の議員及び法律の定めるその他の吏員は、その地方公共団体の住民が、直接これを選挙する。
第九十四条  地方公共団体は、その財産を管理し、事務を処理し、及び行政を執行する権能を有し、法律の範囲内で条例を制定することができる。
第九十五条  一の地方公共団体のみに適用される特別法は、法律の定めるところにより、その地方公共団体の住民の投票においてその過半数の同意を得なければ、国会は、これを制定することができない。」

憲法を見ると特定自治体の同意がないと国策遂行できないのは、その地方だけの特別法制定の場合に限定されています。
憲法上は全国的な国策の貫徹には、特定地方の同意がいらない仕組みです。
憲法上の要請ではないのにあれもこれもと地方の同意が必要な制度にしていたことが間違っているのです。
オナガ知事15年訪米時の記事からです。

http://vpoint.jp/media/44476.html
翁長雄志沖縄県知事の訪米は大失敗
江崎 孝  2015/6/05(金)  メディア批評|沖縄 [沖縄時評]
恥晒した権限誤解翁長知事の思い込みをはるかにしのぐほど、米国の要人や政治家は民主主義が何であるかを心得ていた。つまり州知事と州政府の安全保障に関する法的権限を厳しく峻別(しゅんべつ)していたということである。その点、外交・安全保障にかかわる地域の首長の法的権限を誤解し、夜郎自大な発言で、世界に恥を晒(さら)した翁長沖縄県知事とは雲泥の差である。
・・最後に付け加えると、出発前の記者会見で外人記者が発した「それ(訪米)よりも知事はなぜ安倍首相を説得しないのか」という質問の意味が理解できなかった翁長知事の責任を問うべきである。」

地方自治体首長が政府の頭越しに外国で国防・国家主権に関する事柄を政治発言をするのは、越権行為であり許されないということは、アメリカのように独立している各州が連邦を結成した場合には、州政府が連邦政府の専権事項である外交や防衛問題に口出しするのは条約違反になるという意味でより一層はっきりします。
ただし、元々自分らは先住民・異民族だから・・というのでは、同じ土俵での議論になりません。
冒頭に書いたように日本の地方自治制度は、長年の国内議論すらも必要性もなく敗戦時に歴史の違うアメリカ憲法を(法的素養のない人材が?)模倣して作られたものです。
日本の地方自治制度を論じるならばアメリカ各州内の地方自治の実態や歴史研究が必須です。
アメリカの連邦と州の関係は周知の通り独立国同士の連合契約・条約で成立しています。
合衆国ではなくUNIRED STATE OF・・・ステートの連合ですから、日本の地方自治体とは経緯・本質がまるで違います。
もともと百%の主権を持っている各州(国)が連邦を組むために主権の一部を連邦政府に移譲した関係・移譲しない部分にはもともと持っていた主権が残っているのは当然です。

https://www.mof.go.jp/pri/research/conference/zk079/zk079_02.pdf
「2.1
合衆国憲法
合衆国憲法における地方自治の規定は、1791年に成立した憲法修正第10条による。
ここでは「憲法が合衆国に委任し、または州に対して禁止していない権限はそれぞれ
の州または人民に留保されている」と定めていることから、連邦と州の間での役割分
担は、連邦の権限が具体的に列挙されて州が残余権を有するという、州権の強い形と
なっている。」

軍で言えば同盟行動する以上、軍事活動時に一致協力する範囲で独自行動を制約される程度の関係です。
アメリカ連邦政府と各州の関係は、主権国家である日本がアメリカとのいろんな条約を締結すればこれを守る義務があるような関係の方が近いでしょう。
このような場合、日本やアメリカに自治権があるかという方向の議論ではなく、条約によってどこまで日本国内法が(商取引で言えば契約したらその契約を守られねばならない範囲のレベル・・人権がどこまであるかの議論でありません・・)制約されるかの議論であって順序が逆です。
自治の面でアメリカとの比較をするならば、アメリカの州政府と州内の郡や市その他の自治体の関係と日本の中央政府と県市町村の自治権を比較するのが本来の議論です。
日本の県の権限を連邦政府と対立・緊張関係にある(独自の軍を持ち)州の自治権?と同じように見る現在の暗黙の前提となっている議論自体が無茶過ぎておかしいのです。

軍・警察とシビリアンの緊張関係2

クリスマスから話題が少しズレましたので,12月23日の続きに戻ります。
日本の軍・武士と家の子郎党の関係に戻しますと,落城・負け戦であったとは言え、みんなのために腹を切った元城主や奮戦した勇士を「戦犯」としてあしざまに言うのでは、バチが当たると言う意識の社会です。
アメリカによる日本支配に際しての「軍と国民」の離間政策はこれまで書いて来たように中世以来の歴史を持つ欧米での市民と民衆の分離意識からすれば,普通のことで民族分断を図る特別な悪意でやったものではないのかも知れません。
日本は欧米とは歴史はマ逆であるコトの理解不足が占領政策の基本的ミスであったことになります。
欧米的価値観(ナチスと国民の責任を切り分けるのと同様に)で日本でも軍部の暴走と言う切り分けると共に警察と国民との対立関係の強調・・特高警察が如何に酷かったかの大宣伝教育をしてきました。
アメリカが景気対策と人種差別政策の貫徹のために日本を戦争に引きずり込んだ真実の隠蔽工作をかねて,・・マスコミと教育界さえ支配すれば何でも出来る・・無知蒙昧な欧米民衆・ピープルレベルを前提にする政策でした。
この理解で,極東軍事裁判をやってしまった・・ロケット打ち上げ時の小さな角度失敗が宇宙に行けば大きな誤差になるように、今になると日米に大きなトゲを残してしまいました。
この誤りを少しでも早くアメリカが認めた方が双方にとって有効ですが(繰り返し書いているように日本人は韓国のように相手が謝ったからと言って調子に乗ることはありません),これを潔しとしない欧米発の(日本から見ればイチャモンに見える)中韓を手先に使った戦犯合祀非難問題です。
「軍部の暴走」と言う教育宣伝に私たち世代はどっぷり染まって育ちましたが,アメリカが日本を如何にして戦争に引きずり込もうかと狙っている状況下で・・何かとイチャモンつけては日本包囲網を狭めている状況下で,日本は粘り強く平和解決を求めながらも平行して国防体制を整えて行くのは政治の常道です。
国家の危機が迫れば,国防関係論客の影響力(幕末の海国兵談など)が高まり,政府も実務家を予め要所に配置して備えて行くしかない・・軍関係者の発言力が高まるのは幕末でも今のどこのクニでも同じです。
地震が頻発すれば,地震学者の発言が重視されるし、円相場が上下すればその道の発言力が高まります。
アメリカが日本に軍事圧力をかけ過ぎたから軍部の発言力が高まった・テロが頻発すれば独仏でも治安維持の成否が政権支持率に直結する→治安安定が政権の重要テーマになりひいては治安関係者の発言力が高まり予算も増えるのと原理が同じで現在と何ら変わりません。
日本がアメリカに軍事挑発したことはありません・挑発されていただけです。
アメリカのアメリカインデイアンに対する仕打ち見れば、アメリカの本性がすぐに分ります。
現在中国の違法な挑戦があると平和的に解決のために話し合いを進めたり,国際世論による中国暴発防止のための根回しをしながら、イザというときのためにアメリカの防衛協力を求め(この見返りとして日本もアメリカ軍に相応の協力が必要になります→集団自衛権問題)たり,人頼みだけなく,自分でもパトロールを増やすしかないから、海上保安庁や防衛予算が大幅増になってしまうし,国民の防衛意識も高まります。
軍部が力を持つから戦争になるクニもあるでしょうが,逆は真ならず・・と思われます。
江戸時代に武士の戦力よりは「文」が重視されたのは「四辺波穏やか」であったことによりますし,戦後貧弱な防衛費で間に合っていたのは強大な米軍のカサの下にあったからです。
このように周囲の変数関係を無視して「軍靴の音が聞こえる」と言っても始まりません。
中国の軍事挑戦にアメリカも危機感を持ったのか?次期大統領トランプ氏は軍を退役して10年経過していない人物を国防大臣に指名しました。
シビリアンコントロールのルール上、議会の特別承認がいるようです。
軍が支配権力の道具であって市民と対立して来た歴史を持つ欧米価値観では,相手国に対する非難も軍とあるいは権力と人民を分断するのが有力な手段になります。
今でもロシアや中国批判はいつも国民から遊離しているとか国民を抑圧していると言うスタイルです。
欧米手法をそのまま信じて戦争責任・・慰安婦でも南京虐殺でも何でも軍の責任にすれば良い(自分に関係がない)からと、中韓の主張に便乗して分断を煽る文化人の間違いがその内明らかになる時期が来ます。
警察官も庶民を守る味方であって権力の手先と言うのは、左翼文化人が日本の歴史に無知で?あるいは目の前で行なわれているおまわりさんの仕事を見ないで、西欧の概念を持ち込んで空想して主張しているだけです。
お猿が出たとか鹿がいる,蛇がいる,食いつき亀がいる,大分前にサーカスのトラが逃げたと言ってお巡りさんが探している様子が報道されていましたが,トラでは警察手帳を見せても驚かないので,困ったでしょう。
おまわりさんの道案内は日常業務ですし,夫婦喧嘩の仲裁をさせられたり、何かと忙しいのが日本の警察であって,みんなのヨロズ困りごと相談・・解決に協力する仕事です。
犯罪者を取り締まるのもこの一貫で、要は町中で困った害虫・与太者も退治してくれる頼もしい役割です。
ストーカー被害その他新たな被害パターンが起きると先ずは警察へ相談に行くのが普通の行動です。
困ったら弁護士に行くべきであって市民抑圧装置と教えられていた警察に何故相談に行くのか?と不思議に思うほど学校教育以外の知識の源泉がなくて世間がよく分ってない若い頃には,学校教育そのまま刷り込まれていましたが,大人になって世間を良く知るようになると真逆の関係と分って来ました。
万分の1の確率でおまわりさんも(誰でも)間違うことがある・弁護士は滅多にない間違いを正すのに必要な役割であって,おまわりさんは原則として有り難い存在と言う常識が身に付いて来ました。
母親の健康管理や教育方法が意識が間違っている場合もあるので,子供の定期健康診断や学校など外部チェックも必要ですが,母親を子供の敵だと教育する必要はありません。
おまわりさんを邪魔扱いしたいのは町のダニだけであって,おまわりさんが来たら普通の人がこそこそと逃げ回るのでしょうか?
防犯カメラに反対するグル−プも市民を守るおまわりさんが邪魔になる一群でしょうか?
マイナンバー法反対論者は政府に自分の行動が知られるのがイヤだと言うのですが,別に悪いことをしていない限り,何故そんなに騒ぐのでしょうか?
プライバシー侵害を許すな!と言いますが,政府も警察も犯罪の嫌疑のあるときだけ綿密に防犯カメラなどチェックするだけであって,何にも事件のないときには自動的に消えて行くだけで誰も見ません。
事件の前後に居あわせた人は自分から進んで「あのときは◯◯していたら、こう言う音がして振り向いたら・・」と言う体験談を話すのが普通で,プライバシーだから言いたくないと言う人は滅多にいません。
その人の体験説明が合っているかどうかを防犯カメラでチェックしたら確かにその人が振り向いた様子が写っていることが確認されることもあります。
と言うことは事件前後の犯人の動きを見るために防犯カメラを警察がじっくり見たからと言って犯罪に関係のない人が腹を立てる人は滅多にいないと言うことです。
プライバシーを楯に反対する勢力は、実態に合わない被害意識を創作していることになります。
国民の意識が低いから自分たちエリートが教育してやる必要があると言う立場が基本でしょうか?
おまわりさんは本当は怖い存在・・権力の手先だ・・如何に怖いものかを学校でしっかり教えられて来たとおりに、自分たちエリートは国民に教えねばならないと言う使命感に燃えているように見えます。
我々若い頃には戦前教育を受けた人が殆どでしたから、昔の人は政府に騙されている・・昔の人は仕方がないと思い込まされて育ちましたが,戦後教育を受けた人が中心になった今になると,「学校であれだけ習ったのに身に付かないのは成績の悪い子だったに違いない・・やはりもっと教え込まねば・・」と言うエリーと意識そのままで運動している人が多いように見えます。

PeopleとCitizen5(市民の資格1)

西洋中世でのキリスト教の広がりとその反動としてのシチズン→シビリアンの成長に戻します。
ローマ崩壊後ガリア・ゲルマニアの地を支配したフランク族その他支配者が,支配地域が広がると武力だけではない合理的運営が必要になり,何らかのルールが必要・ルール強制の権威根拠を(日本のように各地習俗を汲み上げる面倒なことをせずに)先進地域のルールブックであったキリストの教えに求めたものと思われます。
1神教は支配者にとっては民意を一々聞き取る必要もないし構成諸部族の意見を無視出来る・・単純明快で支配者にとって便利です。
まして巨大なローマ帝国で普及していたとなれば権威も充分ですから、これと言った説明や納得を得る手間がいらない・・「こんなことも知らないのか!」とバカにすれば済みます。
韓国人は初対面で先ず学歴自慢をして相手を黙らせてしまうのが常道です。
我が国で言えば,内容妥当性議論の逃避・我が国でこれを適用すればどうなるかと言う具体的議論をすることなく留学経験をひけらかして,「欧米では・・」と言えば勝負がつくように思っている社会です。
そしてこの先進文化・ルールに精通している聖職者が支配的地位(第一部会)を占め・次にキリスト教文化をある程度体得している教養人が(野蛮人・バーバリズムから昇格して)「市民」第三部会員として優遇されます。
そしてこのルールを守らせるための強制力・軍事力となって軍事力も一体化します。
軍事力正当化の完成です。
我が国のイメージでは何故シビリアンの敵が「聖職者と軍」であったか分り難いですが,こうした支配体制構築の歴史によります。
中国文明はオリエント・メソポタミア文化の導入で始まったと言う私の仮説については、(すべてこのコラムは私の独断・偏見に基づいています)を、09/01/05中国の独自性とは?1(ペルシャの影響1)以下で連載し、その他、12/14/05「漢民族の広がり?4・東西移動から南北移動へ2」その他あちこちに書いています。
中国でも何かと周囲の民族を蛮族(南蛮・北狄・西戎・東夷)と言いたがり,(今では国名にまで恥ずかしげもなく中華と使うほど)違いにこだわるのは、何段階も隔絶した先進文化導入(自民族で足下から自然発生・段階的発達した文化でない)の歴史があると見れば符節が合います。
こう言う社会では被支配者との間で超越的分化格差があるので,専制支配が可能になります。
これが欧米のピープルとシチズンの分化の始まりであり,中国の士大夫層とその他の始まりです。
日本で漢民族伝来の漢字を読み書き出来る階層が長年エリート層を形成して来たのと同じですが、日本の場合直ぐに万葉仮名を工夫し庶民まで和歌に親しみ,さらにはひらがなを発明し・漢字仮名交じり文になって庶民に普及した・・漢字は文字として利用しただけで,思考内容は日本民族独自性の維持でした。
西欧では民族別思考温存ではなく文字文化も導入されたアルファベットそのままで、しかもルネッサンスが来るまでラテン語だけしか文字化(・事実上どの程度自民族言語が文字化され利用されていたか不明)されませんでした。
朝鮮半島では,15世紀年中頃からハングルがあったらしいのですが・文書は飽くまで漢文のままで、日本統治になって漸く公式認知された?のと比較すれば独自文化発達の違いが分ります。
どこでもいつでも最初の支配確立は武力によりますが,その次の支配はルールによらない裸の武力だけでは大変です・支配道具としてキリスト教が採用された以上は,被支配者にとっては軍とキリスト教が一体化したものに見えたでしょう。
最初は,未開人ではあるが教養を得た者だけを「市民」として特別扱いされ三部会員に昇格して現住民のエリートは満足していたのですが,その内硬直したキリスト教支配が鬱陶しくなると,軍と聖職者に対する抵抗勢力としてシビリアンが生まれて来たことになります。
カール大帝に関するウイキペデイアの記事からです。
「カール大帝(742年4月2日 – 814年1月28日)は、800年には西ローマ皇帝(フランク・ローマ皇帝、在位:800年 – 814年)を号したが、東ローマ帝国はカールのローマ皇帝位を承認せず、僭称とみなした。
古典ローマ、キリスト教、ゲルマン文化の融合を体現し、中世以降のキリスト教ヨーロッパの王国の太祖として扱われており、「ヨーロッパの父」とも呼ばれる[3]。カール大帝の死後843年にフランク王国は分裂し、のちに神聖ローマ帝国・フランス王国・ベネルクス・アルプスからイタリアの国々が誕生した。」
西ローマ帝国継承者を勝手に号したこと・・古代ローマの輝かしい歴史・文化を理想として仰ぎ見ていたことが分ります。
そうなれば自然に思想・道徳その他善悪の基準導入になります。
その前からそう言う意識が定着していたからコソ「われこそが継承者である」との主張が出て来たことになります。
ところで、西洋中世と聞けば,今の英独仏伊などの前身の王国がそのころからあってその下位に各地領主・後の貴族や騎士がいた社会であったかのように何となく想像してしまいますが,上記によると現在のいろんな国の前身である王国が出来たのは,カール大帝死後・843年以降であったことが分ります。
平安時代が、延暦13年(794年)から始まって、 816年 空海が高野山に道場(金剛峯寺)を開いています。
フランク王国分裂後仮に数十年〜5〜60年間の動乱を経た結果いろんなクニの分立が始まったとすれば,899年 に菅原道真が右大臣になっていますし、905年 紀貫之らが仮名序・真名序で書いた『古今和歌集』を撰進したころです。
フランス王国の例で見れば以下のとおりです。
「フランス王国(フランスおうこく、フランス語: Royaume de France)は、現在のフランス共和国にかつて存在し、その前身となった王国。起源はフランク王国にまで遡るが、一般には987年の西フランク王国におけるカロリング朝断絶とカペー朝成立後を「フランス王国」と呼んでいる。1789年のフランス革命まで800年間・・」
「カロリング朝が断絶したあと、987年に西フランク王ロベール1世(ロベール家)の孫にあたるパリ伯ユーグ・カペーがフランス王に選ばれ、カペー朝(987年 – 1328年)が成立した。成立当初は権力基盤が非常に弱くパリ周辺のイル=ド=フランスを押さえるのみであったが・・」
フランス王国と言っても当初今のパリ周辺しか支配していなかったのです。
987年と言えば,日本では藤原兼家が986年に摂政に就いていて、995(長徳1)年には藤原道長が内覧の宣旨を受けています。
文化面では1001(長保3)年:清少納言の『枕草子』が完成し、1011年には紫式部の『源氏物語』が完成しています。
日本では遣隋使,遣唐使を派遣しましたが、明治の和魂洋才政策同様で合理的文化導入だけが目的で、国民のあるべきルール・生き方ではニッポン民族独自スタイルを貫徹していました。
我が国では専制支配(異論を許さない点では1神教支配と同じ)を前提とする科挙制や律令制・・区分田が国情に合わず根付かなかった経緯については、01/10/06「律令制の崩壊2(桓武天皇時代)」前後のコラムで連載しました。
24日にクリスマスの起源に関心を持って,書いているうちに話題がズレましたが,クリスマスを祝う風習は元々のキリストの宗教行事ではなく,いつのころかミトラとか言う別の宗教行事・あるいは習俗を取り入れたことに始まると言われます。
(そんな宗教があったかどうかすらはっきりしないのは、異教徒の習俗だったのを,沽券に関わるので何とかキリスト教に関係付けようとするからではないでしょうか?
これまで書いているように,キリスト教はガリア・ゲルマニアの習俗から発展したものではありません。
骨の髄までしみ込んだキリスト教意識・・キリスト教徒になり切れない者を異教徒として迫害に加担して来た歴史が邪魔をしていて、西洋では素直にゲルマニア・ケルト族の習俗だと認めるわけに行かないのでしょう。
田舎出身の人が東京生まれと虚偽経歴で生きて来た場合,生まれ故郷で覚えたことを「イヤ東京でも子供の頃にはこう言う習慣があった」と言い張っているようなものです。
儒教どっぷり度で日本に優っていることが自慢の韓国に至っては、(いわゆる韓国起源論の一種ですが・・)孔子が朝鮮半島出身と言い張っているのと50歩100歩ではないでしょうか?
外来のキリスト教を取り入れる前の現地民族・・本来自分たちの祖先の習俗そそのまま認めるとこれまで自分たちの宗教であると有り難がって来たメッキが剥げるのが怖いのではないでしょうか?
お祭りの原型がみるからに北欧向きですから,雪も滅多に降らないローマ時代からの習俗にこじつけるのは無理っぽい印象です・ただし地中海世界の習俗が北に行って今のように変化したと言う見方も出来ますのでいろんな意見があり得ます。
日本の神社仏閣は庶民が楽しむ行事中心・・今では観光名所・・いつも人集めの中心ですが,キリスト教と言うより西洋諸国でも,中世修道院に代表される陰気くさい教えの強制ばかりではなく,庶民が楽しめる要素が必要だったのです。
キリスト教の影響が,クリスマスを祝う以外になくなるとすれば,それはそれで信教「から」の自由の完成で目出たいことです。
今年は幸い3連休の中日ですし,信教の自由ではなく「信教からの自由」を満喫するつもりで仏教徒であり神社の信者でもある我が家では、信教とは関係なくクリスマスを今年も楽しみました。

軍・警察とシビリアンの緊張関係1

これまでシチズンとシビリアンの違い・・シビリアン意識は対キリスト教の思想圧迫と軍事支配に対する抵抗のために生まれて来た経過を書いて来ましたが,我が国ではシビリアンコントロールとは軍に対する言い方が普通です。
最早異端審判や魔女狩りの復活リスクは考えられなくなったので、市民にとって残った脅威は軍事支配=権力による人権侵害のリスクだけになって(数世紀経て)から、米軍支配のときに日本に入って来たからです。
憲法
第五章 内閣
第六十五条  行政権は、内閣に属する。
第六十六条  内閣は、法律の定めるところにより、その首長たる内閣総理大臣及びその他の国務大臣でこれを組織する。
○2  内閣総理大臣その他の国務大臣は、文民でなければならない。
○3  内閣は、行政権の行使について、国会に対し連帯して責任を負ふ。
上記の「文民」とはいわゆるシビリアンのことでシビリアンコントロールの原理の現れである説明されています。
ところで、日本では組織は家の子郎党・血族・同胞から始まった歴史があり,武士は自分達の集落や組織を守るために自然発生的に生まれたものであって,集落内の庶民を弾圧すべき暴力組織として対立した歴史がありません。
当然明治憲法も武士が政治に参画してはいけないという発想がありませんでした。
これを遅れた社会と見るか,周回進んでいると見るかの違いです。
家長・集団の長は家族や集団を守る責任はあっても,集団内の弱者を抑圧するためにあるのではありませんし、組織構成員も軍は自分を守ってくれるものと理解して来ました。
一族を守るための武士団ですから,戦いに敗れれば,城主が一族代表として腹を切り,城兵・一族の助命嘆願と引き換えにする習慣が生まれたのです。
野生の猿その他集団リーダーも,集団内の弱い者苛めをするためにあるのではなく逆に集団内の苛めの他の不協和音をなくし外からの脅威に役立つ能力が問われているのが普通です。
西洋で軍事力が市民と対抗関係になっていたのは,異民族支配で軍・支配権力と被支配者の乖離が進んでいる場合に生じる現象です。
ソモソモ支配道具として異民族発祥のキリスト教を利用していた点に問題があったのではないでしょうか?
学生時代に民法の講義だったかで,ローマは3度世界を支配したと聴いたことがあります。
曰く、1回目はローマ帝国による(地中海)世界支配?であり、これが滅んだ後の2回目はキリスト教支配であり,3回目はローマ法(ナポレン法典)・・現在の「法の支配」であると言うのです。
「西洋は異教のキリスト教に支配されていた被害地域である」とこのシリーズで私独自の意見を書いていまるのは、西洋はキリスト教のクニと思っている方にとっては違和感があるかも知れませんが,それほどどっぷり支配され尽くしていたと言うだけのことです。
ユダヤ教徒とキリスト教の関係はよく分りませんが,(全て私の思いつきですからそのつもりで・・)ユダ個人の裏切りが強調されますが不自然です・・キリスト教の母体・であることは動かない事実でしょう。
民族宗教から脱皮させて(ローマの版図に入った地中海世界への広がりに合わせて)普遍性を持たせたのがキリスト教(新約聖書)であるとしてみれば,元々地中海世界とは全く気候風土の違うゲルマニアの地に生きて来た諸民族が地中海地域の価値観強制でさえ鬱陶しいのに,もっと気候環境の違うメソポタミヤ地域限定版の旧約には)付き合い切れないと言う意味で忌避観を持たれているのかも知れません。
では軍が何故民族を守るための軍ではなく,市民抑圧機関になってしまったのでしょうか?
結果から見るとローマが当初市民が自ら兵役につく権利だったのが,いつの間にか義務化して行き最後は傭兵に頼るようになったことと,西欧諸国の近衛兵などの多くは北欧系人種・・兵の多くを傭兵が占めていた事実にヒントがありそうです。
フランス革命は当初第1〜2部会との部会別決議ではなく全体数での議決を求めたので、議決方法で対立して収拾がつかなくなり,いわゆる「テニスコートの誓い」(王権に従わない・実質反乱的行動開始)になりますが、三部会制の否定が当初の争点であり,王制否定ではなかったのです。
国王が,仲裁的に聖職者や貴族部会の第1〜2部会を第三部会に合流させる・議決権同等化を求めたのが革命運動の最初でした。
http://www.y-history.net/appendix/wh1103_1-022.htmlからの引用です。
「1789年6月17日、シェイエス(『第三身分とは何か』の著者)の提案で第三身分部会は自らを「国民議会」Assemblee nationale となのった。6月19日には第1身分が149票対137票で国民議会に合流を決議。第2身分は拒否、国王ルイ16世に援助を求める。翌日、国王は国民議会に議場の使用を認めず、議場を閉鎖したので、議会側は球戯場に集まり、有名な「球戯場の誓い」を決めた。結局国王が譲歩して第一と第二身分の第三身分への合流を勧告、三部会は消滅し、国民議会が憲法制定の場として確定した。 」
「 フランス国民議会は1789年7月9日に憲法制定国民議会(略称憲法制定議会) Assemblée Nationale Constituante と改称し、憲法の制定に着手した。国民議会の党派は王政派から立憲派、共和派までさまざまであったが、主力はこの段階ではミラボー、ラファイエットら立憲君主主義者であった。」
「1791年6月にはヴァレンヌ逃亡事件が起こり、オーストリアの革命干渉も始まって危機が深まり、この間、議会では革命派であるジャコバンクラブが分裂し、立憲王政派のフイヤン派と、共和政をめざすジロンド派がうまれた。まだこの段階では立憲王政派が優勢であったため、9月に1791年憲法が成立、立憲君主政体を成立させて、憲法制定国民議会は役割を終えて解散、代わって10月に立法議会が成立することとなる。」
「緒戦ではフランス革命軍はオーストリア・プロイセン軍に敗れ、外国軍がパリに迫る危機となった。そのためジロンド派内閣は辞職したが、全国から連盟兵(義勇兵)がパリに集結し、またパリ市民のサンキュロットと言われる下層民も蹶起してティユルリー宮殿の国王を襲撃するという8月10日事件(第二革命)が起き、立法議会は王権停止・・た」
こう言う経過で制憲議会設立当初は(イギリスを参考にした?)立憲君主制への改革目的だったのが、途中で国王夫妻がギロチンの露と消えるほど激しく変わってしまった契機は外国兵を引き入れる国王の計画がバレたことによります。
ベルバラで有名な恋人も北欧系青年将校との恋物語でしたし,バッキンガム宮殿の近衛兵の儀式も元はと言えば(体格が良く金髪で)格好いい北欧系近衛兵だったことによる名残です。
話が変わりますが、20年ほど前に台湾に行ったときに中山陵だったかで近衛兵の交代式を見たことがありますが,アジア人を卑下するようで心苦しいですが,バッキンガム宮殿の衛兵交代式ほど格好良くはありませんでした。
上記引用の続きです。
「革命干渉軍に対する革命防衛戦争が始まったことによって、軍隊の主体は中世的な傭兵に代わり、近代的な国民軍の形成をうながすことになった。」
この時点で漸く(今で言う外国人雇い兵)傭兵軍に頼るのをやめて国民・・自分たちを守るための軍が形成されたのですから,日本古代の防人とは千年以上の差があります。

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