非嫡出子差別違憲決定の基礎2(空襲→都市壊滅)

昭和22年改正時に非嫡出子差別がなぜ残ったか?社会生活の変化がそこまで進んでいなかったのかを以下見ていきます。
日本産業構造の近代化に連れて(タイムラグがあります)生活様式や意識も親族関係の重みも変わっていきます。
明治時代はまだ人口の大半は旧幕時代の意識濃厚であったでしょうが、明治45年を経て大正時代に入ると生まれたときから文明開化の空気で育った新人類(今で言えば生まれた時から「テレビを見て育った世代」最近では「生まれつきネットで育った新人類」)の時代に入っていたでしょう。
文学分野では、明治末から白樺派など(志賀直哉その他財閥2世?のお坊ちゃん文化)が一世を風靡していましたが、芸術系は発表時に現実多数化している生活変化の後追い表現ではなく、先行心情の先取り傾向があるので文学芸術表現が必ずしもその時代意識とは言えません。
大正時代には産業構造的にも都市化=核家族世帯化がかなり進み、家族関係も変わっていました。
法制度は実態の後追いですから、私の職業上のソース・・法制度で見れば以下の通りです。
https://kotobank.jp/word/%E5%80%9F%E5%9C%B0%E6%B3%95-75830

借地法(読み)しゃくちほう
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説
大正 10年法律 49号。借地人の権利の強化を目的とした法律で,借家法とともに制定された。借地人保護の法律としてはすでに建物保護ニ関スル法律があったが,本法は,借地権の存続期間延長と継続をはかり,その反面土地所有者に地代増額請求権を与えたものである。 1941年の一部改正 (法律 55号) によって,東京など一部の地域に限定されていた適用区域を全国に拡大した・・。

都市住民が増えていたことがこのような法律を必要とするようになっていたことがわかります。
大正時代には、大都市化の進んでいた東京だけ対象の法律でしたが、1941年から全国適用になっています。
そこで敗戦によって家の制度がなくなり親族相続編が抜本的改正が行われたにも関わらず、嫡出非嫡出の差別がなぜ残ったか?の疑問です。
敗戦直後都市住民の多くは空襲によってほぼ全部燃えてしまい・・空襲にあったのは東京だけではありません・・千葉市のような小さな町でもほぼ灰燼に帰したばかりの空襲写真展を時々見ますし、全国小都市にあるお城がほぼ空襲で燃えてしまった(空襲を受けずにそのまま残ったのは姫路城や松本城などほんのわずかです)ことでもわかるでしょう。
家もなければ食の手当てもできない→生活できないので故郷の実家を頼って田舎に帰っている世帯多数でした・・。
私自身都内で生まれましたが、東京大空襲にあって住む家もなくなったので母の故郷に戻りそこで成長しました。
GHQの当初占領政策は、日本の工業生産を認めず農業生産しか認めない方針であったことを何回も紹介してきました。
戦後直後は工場関係壊滅したばかりかせっかく空襲を免れた工場機械までGHQの命令で中国や東南アジアへ強行搬出されている時代でしたので、工場労働が縮小する一方で強制的に原始時代に戻ったような時期だったことになりそうです。
農業→家族労働同時代に逆行が始まっていたとすれば、非嫡出子・多くは正妻のいる農家や家業に関係しない子を前提にすれば、半分で良いのではないかという考えが多数だったのでしょう。
戦後民法改正時には、日本を今後江戸時代の農業社会へ退行させるという今考えれば悪夢のような恐ろしい政策がGHQによって実行されている最中だったのです。
以前にも紹介していますが、重要なことですので再度引用しておきます。
https://ja.wikipedia.org/wiki/連合国軍占領下の日本#貿易で7月7日現在検索すると占領政治は以下の通りでした。

産業解体
SCAPはドイツと同様に日本の脱工業化を図り、重化学工業産業を解体した。初期の極東委員会は賠償金を払う以上の日本の経済復興を認めなかった。
マッカーサーも1945年(昭和20年)9月12日の記者会見で「日本はこの大戦の結果によって、四等国に転落した。再び世界の強国に復活することは不可能である。」
と発表し、他のアジア諸国と同様に米国および欧州連合国に従属的な市場に解体するべく、極度な日本弱体化政策をとった。

欧米の植民地レベルに落とす政策・・奴隷解放運動をした運動家を奴隷の身分に落とすのと同じやり方・・植民地解放運動した日本を植民地にしてしまう・・日米戦争に引きずり込んだ米国の真意・目的がここに現れていることを何回か紹介してきました。
極東委員会は復興を認めなかった(焼け野が原にしておけ)だけですが、GHQは残っていた工場までスクラップ化を進めたのです。
引用続きです。

こうして各地の研究施設や工場を破壊し、工業機械を没収あるいはスクラップ化し、研究開発と生産を停止させ、農業や漁業や衣類を主力産業とする政策をとった。工業生産も、東南アジア諸国などへの賠償金代わりの輸出品の製造を主とした[12]。
1945年(昭和20年)に来日した連合国賠償委員会のポーレーは、日本の工業力移転による中間賠償を求め、賠償対象に指定したすべての施設を新品同様の状態に修繕し、移転まで保管する義務を日本の企業に命じた。1946年(昭和21年)11月、ポーレーは最終報告として「我々は日本の真珠湾攻撃を決して忘れない」と報復的性格を前文で明言し、「日本に対する許容工業力は、日本による被侵略国の生活水準以下を維持するに足るものとする。右水準以上の施設は撤去して有権国側に移す。」とした。軍需産業と指定されたすべてと平和産業の約30%が賠償施設に指定され、戦災をかろうじて免れた工業設備をも、中間賠償としてアジアへ次々と強制移転させた。大蔵省(現在の財務省と金融庁)によると、1950年(昭和25年)5月までに計1億6515万8839円(昭和14年価格)に相当する43,919台の工場機械などが梱包撤去された。受け取り国の内訳は中国54.1%、オランダ(東インド)11.5%、フィリピン19%、イギリス(ビルマ、マライ)15.4%である。

非嫡出子差別違憲決定の基礎1

いろんな憲法違反訴訟をやっている運動家?は数十年後に違憲判決が出ると自分らに先見の明があった思っているかも知れませんが、裁判所は社会実態を見て判断しているのであって、数十年前には極く例外的不利益だったのが数十年の経過でその区別が不合理となって初めて憲法違反と認定するものです。
憲法に書いてある「良心に」従う義務とはこういうものであり原理主義的な主観的立場による裁裁判する義務ではありません。

憲法
1〜2項省略
○3 すべて裁判官は、その良心に従ひ独立してその職権を行ひ、この憲法及び法律にのみ拘束される。

税制(有名なところでは専業主婦)や社会保険 年金あるいは学校教育でも標準型をターゲットに政策決定していくのが普通です。
そうすると標準型でないものは利益を得たり割りを食います。
その部分だけを見れば不合理な差別でしょうが、その国・社会の実態から見て不合理で許容範囲を超えているかが決め手であるべきです。
学校教育で言えば、集団教育である以上どの程度の集団でクラスを編成するかでクラス内でレベルのバラツキ差がおきます。
先生が教育の際、どのレベルに焦点をあてるかが重要ですが、焦点に外れる生徒は置いていかれるし、出来過ぎる子には無駄な時間になるなどの不都合が起きます。
市民講座や講演会でも難しすぎてもっと丁寧な説明をしてほしいという人もいれば、常識的に知っている話ばかりで聞いても意味がなかったという人まで色々です。
義務教育のクラスは年齢でくくっているのですが、6歳になったばかりと7歳近い子供では発達結果に大きな差がありこれを50人ほどのクラスで6歳半に焦点に当てて教育をすると、6際になったばかりの子はついていけない生徒が出ますし、リーダーシップの経験を積むことなく生長していきます。
年単位で分けるのは今になれば括り方が大きすぎて、教育を受ける権利が侵害されていたという疑問や不満の声が大きくなってもおかしくないでしょうが、戦後まだ教室の足りなかった時代には仕方なかったとも言えます。
教育問題は一過性なので自分の子供はすぐ2年生3年生となって行くのでそんな裁判をしても解決にならないので泣き寝入りですが、学校の方でも課外授業でなんとか修正をし、お金のある親は家庭教師の利用に走っていました。
その後、塾や予備校が産業として発達したのは、画一教育が例外的少数者にだけ不都合だったのではなく、(できる子にとっても)大方の生徒にとって不都合な方法であったことを証明しているでしょう。
私塾の場合、習熟度別対応が今では普通でないでしょうか?
市民講座や数百人相手の講演会でも難しすぎてもっと噛み砕いてくれないと困るという人もいれば常識みたいな話ばかりわざわざ聞く意味がないという人もいます。
国民という母集団にはいろんなバラエティがあるので、統計や世論調査も標準モデルを利用するしかないのですが、最近では携帯等の発達、独身や共働きが多くなったので固定電話での世論調査では実態を表さないとか、夫婦共働きが増えると1世帯4人で専業主婦を標準モデルにした税制や年金消費動向調査その他のインフラが破綻状況になってきます。
選挙区も、数十年以上経過すると人口配置が変わるので修正していく必要があるのに、その修正を怠り過ぎると違憲問題になるということでしょう。
このように多くの制度設計は当時の人口構成や就労形態等を総合した政策決定の分野(立法政策の問題)であり、その限度を超えた場合に違憲の問題にすべきです。
ここで昨日最後に紹介した平成25年の嫡出子非嫡出子の相続分差別に関する最高裁の違憲判例に戻ります。
嫡出子非嫡出子の相続分の違いは、明治30年頃の法制定当時農業人口90%台(うろ覚えの直感的数字です)の時代・家にある子と家の外にある子とでは家産の維持発展に関する貢献度合いが99%(うろ覚えの直感的数字です)の違いがある時代を前提にしていました。
これが敗戦直後に家の制度解体による見直し時にも非嫡出子の相続分比率が修正されなかったのは、家制度という観念体系によるのではなく、世帯単位の分離が進んでいなかった生活実態によるでしょう。
戦後の親族相続編の大改正は昭和22年に行われています。http://www.archives.go.jp/ayumi/kobetsu/s22_1947_08.htm

民法は、第1編総則・第2編物権・第3編債権・第4編親族・第5編相続の5編で構成されていますが、昭和22年(1947)12月22日、第4編・第5編を中心として、日本国憲法の基本原理に基づいた改正が行われました。家・戸主の廃止、家督相続の廃止と均分相続の確立、婚姻・親族・相続などにおける女性の地位向上などが改正の主要な内容です。

昭和20年8月のポツダム宣言受諾後日本開闢以来初の異民族による占領支配開始で大混乱下のわずか約1年余り(法案作成→審議会等の精査→利害調整過程を経ての国会上程時間を考えるとまともな審議ができたのか?
私の家庭で言えば東京空襲前には、父母は東京で自営業を経営していたようですが、戸籍上は田舎の跡取りの(家督相続した長男)の戸籍に属しているものでした。
都会人の大部分がこういう都会人1世〜2世だったでしょう。
私の家族の生活実態で言えば、法制度と全く合っていなかったのです。
家の制度が社会実態に合わなくなっている不合理が長年学会で問題になっていて戦前から煮詰まっていた意見によったから泥縄式の議論をしなくともすぐに成案になったのか?もしれません。
上記民法の正式改正前に民法改正予定の骨子を定めた応急措置法が制定されています。

日本国憲法の施行に伴う民法の応急的措置に関する法律(明治22年4月19日法律第74号)

民法改正は新憲法制定に間に合わないので新憲法施行と同時に効力が出るように予め改正予定の骨子だけ制定したものです。
これによれば、骨子については昭和22年4月には国会に法案提出できるように基本合意が成立していたことがわかります。
この骨子の中で家督相続廃止や相続分規定などがあり、配偶者の相続分規定があるのですが、非嫡出子の相続分変更規定がありません。
この時点ですで変更しないことが決まっていたのでしょう。

集団自衛権違憲論2(学者意見とは?)

昨日書いたように法律にはABCなどのいろんな解釈が成立するのが普通です。
いろんな説が成り立ち得るのに、特定立場でD説しか成立しない・・これを前提に「憲法学者がこう言っている」という宣伝をした上での抽象的世論調査は、言わば不当誘導的な調査になります。
そもそも真面目な学者が具体的条件不明の段階で根拠のあるA〜B〜C〜D説などの内、D説しかないと断定的学説を定立できるとは思えません。
関連法機整備の仕方によっては違憲になり得るから危険だ!だと言う場合には、違憲法案だと断定意見を言うのは行き過ぎです。
「車は事故が起きることがあるから禁止せよ」と言うのと同じ論法です。
法律文言で「他国侵略せよ」という書き方はあり得ないので、結局は「防衛目的といっても運用でどうにでもなるのが危険だ」という程度とすれば、昨日書いた通り公務員が違法行為をする前提意見ですから、代議制民主主義や司法制度によるチェック機能を無視した意見になります。
正当防衛の例で言えば、事件ごとに事情が違うのに前もって「こういう場合には正当防衛に当たらない」と確定的に言える人がいるのでしょうか?
我々弁護士でいえば受任当初に事件の概要を聞いて、「もしかしたら正当防衛の主張でイケそう」と言う場合でも、相手方や目撃者の主張や客観事実を総合しない段階では正当防衛を主張して良いかどうかすら判断できません。
公判前整理手続きを重ねて検察官の手持ち証拠開示を求めるなどして、弁護側主張を固めていくのに半年単位の時間がかかる事件はざらにあります。
以下は公判前整理手続に要している平均月数です。https://www.nichibenren.or.jp/library/ja/jfba_info/statistics/data/white_paper/2016/2-6-3_tokei_2016.pdf

資料2-1-6-3
平均審理期間及び平均公判前整理手続期間-自白否認別・裁判員制度導入前後別p-

94弁護士白書 2016 年版

(2)自白・否認別の平均審理期間・平均公判前整理手続期間等
裁判員裁判の審理に要する期間は、犯罪の成立が争われる否認事件か、犯罪の成立に争いのない自白事件かによって大きく異なる。次の表は、2015 年(1月~ 12 月)の裁判員裁判対象事件の自白・否認別の平均審理期間・平均公判前整理手続期間(過去比較)及び審理期間・実審理期間についてまとめたものである。
必要的弁護事件数と国選弁護人選任率の推移(簡易裁判所)
資料2-1-2-5
裁判官裁判(2006年~2008 年)裁判員裁判
   中略
   平均審理期間
        2006~08平均     累計     2009年   2010年     2011年       2012年       2013年        2014年      2015年
                 8.3          10.9             5.6           9.8         10.9          11.7           10.9            10.6             11.2
  うち公判前整理手続期間の平均(月)
  否認事件
     3.7         8.4               3.1             6.8           8.3           9.1        8.5                   8.5              9.1
  うち公判前整理手続以外に要した期間の平均(月)
     4.6       2.5               2.5              3.0             2.6          2.6           2.4                    2.1              2.1
 このように公判前準備だけで平均8ヶ月もかかっている・・事実というものはやって見ないと分からないのが普通ですからちょっとした条件を挙げて「こういう場合どうですか」と聞かれても、もうちょっと前後の事情を聞かないとなります。
あらかじめ、こう言う場合という「一言で言える程度の事情・簡略な例示だけ」で正当防衛になるとかならないとか、「一概に」言えないのが、一般的です。
日本国憲法下においても自衛権・自衛のための闘争権限があるというのが8割以上の国民意見であるとした場合、その基礎にある法理論は、自衛権→個人の正当防衛の思想です。
「どんな不法なことをされても反撃できない・自分の命すら守ってはいけない国家ってあるの?」という素朴な国民意見に自衛隊は支えられています。
「集団自衛権」が違憲か?と言う疑問があるとしたら、解決すべき論点・国民の知りたいことは、その法律によって自衛の範囲・個人でいえば正当防衛の範囲を超えた軍事行動をする権限を与える事になるかどうかこそが本来国民が知りたい争点です。
「もしかしたら権限外の行為をするかも知れない」「こういう心配がある、ああいう心配がある」と言う可能性を聞きたいのではありません。
不当、違法行為を前提に違憲の可能性を言い出したら、警察官が好き勝手に拳銃を発砲したり逮捕したら困るからという理由で、警察制度自体が憲法違反になるかのような議論になります。
この種の危険性を宣伝しているのが自衛隊違憲論です。
従業員にお金の管理も任せられません。
不当逮捕が心配であっても、警察制度を廃止するのではなく公務員の法令遵守教育の他に令状主義や裁判手続きなどのチェックシステム整備をすれば良いことです。
企業も経理システムの整備などで不正経理を防ぐべきであって、他人に経理を任せない方が良いと言う意見は飛躍があります。
非武装論者と運動体がダブル傾向がありますが、公害反対その他何でも短絡的に飛行停止や操業禁止を求める傾向がありますが、車事故が多くても交通ルールや環境整備によって事故を減らして行けば良いように、公害問題も防除システム整備の問題であったことが結果的に証明されています。
なんでも新しい道具やシステムには、相応の不具合があること多いのですが、その不具合を「だましだまし」というか、実用していく中で副作用を減らして行くのが、人間の知恵です。
私自身法案をきっちり見る暇もないので、文字通り素人ですが、常識的に考えて一見明白に「自衛以上の戦争行為ができる」と法案に書くことはありえないでしょうから、その法案を(A~Dの中で最悪曲解すれば)「違憲行為ができそう」という程度では、 昨日書いたように公務員が現場で、意見にならないABCの選択しかできない・合憲解釈の範囲しか行動できないとすれば違憲法案とは言えません。
憲法学者が何が起きるか不明の状態で自分の好きな限定条件・一言で言えるような極端な事例設定して?あたかも正しいかのような意見を述べているとすれば、職分を超えた振る舞いです。
ただし、元々自衛権行使(殺されそうになって相手の手を払いのけてもいけない?)自体が憲法違反という立場の憲法学者にとっては集団自衛権が自衛の範囲であっても憲法違反になるのは当然ですから具体的条文チェックの必要すらないといえばその通りです。
>こういう学者の意見など国民の多くが相手にしていないのに、集団自衛権行使が憲法違反かどうかの質問をして報道する事自体国民を愚弄する茶番劇・報道の歪みを表しています。

世論調査とは?(集団自衛権違憲論1)

芦田修正の関係で戦後の憲法学者の憲法論の推移と国民意思との乖離の歴史を見ておきましょう。
http://gohoo.org/16020701/によると詳細引用を控えますが、16年現在憲法学者の約7割が、自衛隊は憲法違反とアンケートにこたえているようです。

「憲法学者の7割が自衛隊違憲」は水増し? 東京新聞の引用は不正確
楊井 人文, 2016年2月7日
東京新聞2016年2月14日付朝刊1面 朝日は昨年7月、憲法学者アンケートの結果、122人の回答者のうち104人が集団的自衛権の行使を容認する安保法案を「憲法違反」と回答したと報じた。その中で自衛隊の合憲性につlいても質問していたが、回答結果を紙面で伝えず、デジタル版にのみ簡潔に載せていた。日本報道検証機構が指摘した後、詳細な回答結果がデジタル版に開示された。その結果を分析すると「自衛隊を合憲と実名で回答した憲法学者19人のうち、安保法案を明確に違憲と答えたのは8人だった」ことも明らかになった(既報トピックス=朝日新聞 憲法学者アンケートの結果の一部を紙面に載せず)

今日の本来のテーマは、自衛隊の存在自体を違憲と考える学者がどの程度かを知りたくて引用したのですが、上記検証記事を見ると集団自衛権の違憲論の調査の前提調査であったことがわかります。
横道に逸れますが、メデイアの調査の仕方に疑問が起きたので、ついでに書いていきます。
上記によると朝日新聞は、もともと自衛隊を違憲と考える人を中心に集団自衛権の合憲性を聞いたら7割の人が違憲と答えたと言う事になります。
国民の約8割が自衛隊の存在を支持している現状(政党別に言えば、共産党を除く全政党が合憲と認めています)からすれば、国民の多くは自衛隊自体の違憲か合憲論については現実無視の憲法学者に今更意見を聞く必要性を感じていません。
現実を知る能力は(世間知らず?)の学者より一般国民の方が詳しくその判断が正しいことを前提に民意重視・選挙制度が出来上がっていますし、だからこそ、メデイアは世論調査をしょっちゅう実施しているのです。
将来どうなるかは不安ですから、現状の自衛隊の合憲を前提にした上で今後集団自衛権になるとどう言う危険があるのかについて専門家の意見を知りたい人が8割以上いることになります。
自衛隊が必要なものである・・合憲で良いと考える人にとっては、もともと自衛隊を違憲だと言う学者に集団自衛権は違憲ですか?と改めて聞く意味はありません。
上記データによれば、自衛隊の合憲論学者で集団自衛権を違憲と回答した人が、19名中8名しかいないという事ですから、メデイアによる7割もの憲法学者が違憲と言っていると言う宣伝報道の内実は、もともと違憲論者中心に聞いていたと言う衝撃的事実がわかりました・・まあ皆が迷うくらいですから真面目に考えた回答とすれば穏当な票割れでしょう。
現状の自衛隊が合憲という人でも、集団自衛権になると違憲かどうか・・そこまでは賛成しないかどうかの判断基準は、どう言う場合に集団自衛権を行使するかの細かな発動条件によるので、素人には分かりにくい・この面で専門家に聞きたい気持ちがあります。
政治家や法律家は憲法違反かどうかの抽象的な主張ではなく、こういう規定だとこういうことができるから、これしか出来ないから憲法違反だという具体的な危険の有無程度を主張すべきです。
簡単にいえば、むやみやたらにどこでも政府が勝手に出かけて行って戦争する権限を付与するのは困るが、日本の防衛にやむをないとき・・共同作戦中やその準備過程(兵器弾薬の補給を米軍にお願いしている場合などに補給運搬中米軍が攻撃されたら警護し応援するのはやむを得ないだろうというのが大方の許容範囲でしょう。
物事は具体的条件設定や状況によるのですから、具体的条件設定をどのように表現してアンケートを取ったかによっても答えが違ってきます。
ところで法律は抽象的にならざるを得ない・・「切迫した状態」刑法でいえば正当防衛が許される場合の表現に「急迫不正の侵害」と要件がありますが、具体的にどう言う場合に該当するかまで法律には書ききれません。
腕力のある人が正当防衛に名を借りて弱い相手に暴行を加えることになり兼ねないから、正当防衛の条文は違憲だという人はいません。
事案によっては千差万別の無限大とも言える多様な事象に対してプロの裁判官が事案ごとに認定していき、正当防衛に当たるかどうかが決まる仕組みで、腕力のある人が正当防衛と主張さえすれば通る訳ではありません。
前もって法令に「こう言う場合」と限定するのは不可能でいくら文言を連ねても、具体的にどう言う場合に正当防衛になるかは、具体的事件に合わせて裁判で決めていくしかないのが実務です。
抽象的だと政府が何をするか不明だから、信用できないと言い出したら代議制民主主義・・そもそも法制度が成り立ちません・・政府や国会、司法機関のチェックに委ねてそのあとでルール違反があれば政治責任や刑事、民事責任を問うのが民主主義社会です。
実際に警職法や破防、凶器準備集合罪など制定時に人権侵害の危険を野党・人権団体が毎度主張してきましたが、何十年もの経験で実際に過剰運用行為で問題がおきたと聞いたことはありません(司法の場で是正されるので過剰運用ができない仕組みです)。
実務運用を政府や警察、自衛隊その他に委ねない・・やる前から危険がある=違憲だというのでは、すべての法律制度が成り立ちません。
上記の通り破防法等は制定時に不当弾圧に政治利用されるとの批判が有りましたが、実際の運用でそういう問題が起きていないし自衛隊を持てば侵略国家になると大騒ぎでしたがそんな事になっていません。
近代の最初・人権擁護意識高揚期には、裁判でも恣意的事実認定を恐れて証拠法定主義が流行りましたが、一定証拠さえあれば有罪、その証拠がなければ無罪という固定主義は実態に合わないので、すぐに廃止されて現在では自由心証主義になっていることを以前紹介しました。
企業トップであれ政府であれ、結局その任に当たる人をある程度信用するしかない・事後の国会承認等外部チェックを厳しくしていくという常識に落ち着いているのです。
そして今では8割の国民が自衛隊の存在を支持し信用している(と言うことは自衛隊や警察は武力を持っていても違法なことをしないと信用)し、自衛隊違憲・・存在を認めない→信用しないと言う政党は共産党だけになっています。
自衛権行使が現状合憲と思っている大方の国民にとって、その先「どこまで」権限を広げるのが許容範囲かこそが議論のテーマですし世論調査すべき対象です。
集団自衛権という意味不明の概念で違憲かどうかを聞くのではなく、具体的条文を紹介してこの書き方で自国防衛の範囲を超えているかどうかの調査をすべきです。
ある法文言ではABCDの解釈が可能とした場合に、ABCは合憲の範囲内でDの解釈をすれば違憲とした場合、その法律が違憲になるのでしょうか?
もしも本当にD行為が違憲であるならば、その法律の解釈としてはABCの解釈しか許されない・D行為はその法による行為とは言えない・・違法の評価を受けることなるので違憲の法律になる余地がありません。
法そのものが違憲になるのは、その法によって違憲の行為しかできないとき・・ABCDどのような解釈をしても違憲行為しかないときだけですから、ABCならば良いが乱用してDをされるおそれがあるという主張自体がおかしな主張と思われます。
だからこそ戦後次々と「軍靴の音が聞こえてくる」と騒いでいたこと全てが杞憂に終わったのです。
警官に拳銃を持たせると適法使用もあるが個人怨恨で違法使用されたら困るというのと同じで、公務員が違法行為をすることまで心配していたら全ての法律が成り立ちません。
違憲論を合理的に言うならば、この法律があると権限乱用してこういう違憲行為が「できる」という主張でなく、違憲行為「しかできない」とまで言う必要があります。

憲法9条は押し付けか?(自衛隊違憲?)

ここでは自衛隊違憲合憲や改正の是非はテーマではありませんが、これまで見てきた資料の中に文民条項が入った時の経緯が出ていますのでついでに紹介しておきます。
http://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/01/026shoshi.html
日本の自衛権保持問題

4-11 極東委員会と文民条項
極東委員会が1946(昭和21)年7月2日に採択した「日本の新憲法についての基本原則」には、国務大臣は文民(civilian)、すなわち非軍人でなければならないとする原則が盛り込まれており、8月19日にはマッカーサーもこのことについて吉田首相に申し入れた。しかし日本側は、第9条第2項が軍隊保持を禁じている以上、軍人の存在を前提とした規定を置くのは無意味であると主張し、文民条項は置かないことでGHQ側の了解を得た。
ところが、いわゆる「芦田修正」により、第9条第2項に「前項の目的を達するため」という語句が加えられていたことに極東委員会が注目したため、文民条項問題は再浮上することとなった。すなわち9月21日の会議で、中国代表が、日本が「前項の目的」以外、たとえば「自衛という口実」で、実質的に軍隊をもつ可能性があると指摘した。そのため、検討の結果、同委員会は文民条項の規定を改めて要求することになった(同月25日決定)。同委員会の意向は、ホイットニー民政局長から吉田首相に伝えられ、貴族院における修正により、憲法第66条第2項として文民条項が追加された。
なお、「文民」とは、このとき貴族院小委員会でcivilianの訳語として考案された造語である。

上記の通りの経緯で文民条項が復活しましたが、連合国の前提には平和国家でも当然自衛権があり、そのための国防軍を保持できる前提だったので文民条項が必須だったのですが、上記経緯で一旦これが消えそうになっていたものです。
この経緯・・軍自組織がなければ、文民条項不要なので、憲法に文民条項が置かれた経緯から見ても関係国みんなが自衛軍を持てる前提で議論していたことがわかります。
13日に紹介したSWNCC228の「天皇は軍に関する全ての権威を剥奪されるべき」と言う根本原則・・「(4) The Emperor shall be deprived of all military authority」も、軍の存在を前提にしています。
SWNCC228は秘密にされていたので、日本側は米国の真意・落としどころ不明のまま過剰反応で、GHR草案をそのまま受け入れてしまった印象があります。
旧態然とした天皇制度維持にこだわってしまったことから、1946年2月13日にそんな改正案しかないのならば、天皇の身の安全を保障出来ないとGHQに脅されて腰を抜かした関係者が、米国が本音ではこだわっていない分野まで過剰妥協してしまった・交渉ミスだったとも読めます。
2月13日に日本側に手交されたGHQ草案を見ておきましょう。
http://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/03/076shoshi.html

 CHAPTER I
The Emperor
Article I. The Emperor shall be the symbol of the State and of the Unity of the People, deriving his position from the sovereign will of the People, and from no other source.
Article II. Succession to the Imperial Throne shall be dynastic and in accordance with such Imperial House Law as the Diet may enact.
中略

  CHAPTER II
Renunciation of War

Article VIII. War as a sovereign right of nation is abolished. The threat or use of force is forever renounced as a means for settling disputes with any other nation.
No army, navy, air force, or other war potential will ever be authorized and no rights of belligerency will ever be conferred upon the State.
日本国憲法

第2章 戦争の放棄
第9条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

政府は上記のとおり、GHQの勢いに飲まれた担当者が唯々諾々・まともな交渉にも何もならなかった腰砕け状態日本側の憲法改正案になった印象ですが、いわゆる芦田修正「前項の目的を達するため」が徳俵で一本残した印象です。
これがなくとも法理論上自衛権を持てるという考えが普通かもしれませんが、あった方がなお一歩自衛のための戦力保持に近づく印象は否定出来ないでしょう。
今になれば、自衛隊合憲(国民世論)が多いので、芦田修正の意味は大したことがないという人が多いかもしれませんが、戦後10〜20年間くらいは自衛隊違憲論が強く、砂川事件など憲法訴訟がしょっちゅう起きていたことを考えるとやはり芦田修正の影響力が大きかったと思われます。
http://www.sankei.com/life/news/131109/lif1311090026-n2.html

2013.11.9 07:38更新
【中高生のための国民の憲法講座】
第19講  憲法9条 芦田修正が行われた理由 西修先生
芦田氏は、昭和32(1957)年12月5日、内閣に設けられた憲法調査会で、以下のように証言しています。
◆自衛の戦力保持可能
「私は一つの含蓄をもってこの修正を提案したのであります。『前項の目的を達するため』を挿入することによって原案では無条件に戦力を保持しないとあったものが一定の条件の下に武力を持たないということになります。日本は無条件に武力を捨てるのではないということは明白であります。そうするとこの修正によって原案は本質的に影響されるのであって、したがって、この修正があっても第9条の内容には変化がないという議論は明らかに誤りであります」

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