事後審査社会→訴訟と保険の発達2

入国審査その他行政の仕事は(ちょっとした届けで市役所に行ったら受け付けてくれないレベル)いい加減で良い・・不満な人は弁護士に頼んで裁判すればいいと言うのでは困ります。
現在の国際競争で言えば、製品不良率の多少・・歩留まり率こそが商品価値の差です。
発火事故のあったサムスン製スマホで言えば、「発火したら取り替えます」では誰も買わないでしょう。
アメリカ製造業衰退の基礎原因は相手国の不公正障壁によるのではなく、「後で司法救済を受ければ良い」と言う政治が象徴しているように良いものを努力して作る習慣がない・・「粗雑・粗悪品」で何が悪い・・クレームがあれば後で治せば良いと言う価値観・習慣によると見るべきです。
アメリカのベルトコンンベアー方式の発明は緻密作業に適応出来ない・民度レベルの開き直りであったことを書いて来ました。
この延長で、ドンドンと作業分化・簡略化が進み結果的に、未熟練工でも役に立つ・・新興国への工場移転に繋がったことも書いてきました。
これの道徳的裏付け・正義論が・・不良品前提の事後審査制度であり、この両輪が今のアメリカ経済斜陽化に繋がっていることを、Jan 22, 2017「新興国台頭と日本の進むべき道2」以来書いて来ました。
日本でも外車輸入が伸びているのにアメリカ車だけ負けている事実が国際競争力低下を物語っています。
大統領令が無茶苦茶でも兎も角出れば有効(ここではトランプ大統領令が無茶苦茶というのではなく一般の大統領令を書いています。)・・被害を受けた国民が後で裁判して救済を受けるしかない事後審査制度では、強い者勝ちの社会になります。
アメリカで警官による射殺事件が多いのは、犯罪者に射たれるのを待っていて、うたれたら相手を殺人犯で検挙してくれるのでは間に合わない・法の支配など待っていられない・・「早い者勝ち」の論理・・正義感があるからです。
アメリカ流の粗雑社会とセットの事後審査主義のあり方を世界が支持しているかと言えば、製品市場でアメリカ製品が負け続けている結果を見れば世界は粗悪品→事後審査よりは、事前に安全な検査したものを求めていることが分ります。
政府・大統領令が間違っていれば裁判すれば良いと言われても、戦時中に日系人は違法に?強制収用されても実際に裁判出来ませんでしたし、今回の入国禁止令でも対象になる7カ国出身米国人自身が抗議の動きすら(怖くて)出来ていません。
化粧品その他での被害者が1000人いても実際に裁判出来る人は滅多にいない・・この救済のために懲罰的損害賠償制度が発達しましたが、資力のない人が泣き寝入りするしかない現実を無視出来ません。
2月4日に移民概念の紹介でアメリカ法律事務所の移民制度の説明を紹介しましたが、その説明文には「移民手続に精通した弁護士に依頼しましょう」と言う案内が一杯出て来ます。
そうすれば「入国審査でのトラブルにすぐに対応します」と言う案内です。
と言うことは、弁護士次第で釈放されたり、されなかったりする社会・・日本では補助金その他いろんな申請するのに弁護士がついて行かなくとも、とおるべきものは通る・・間違いないのが前提です。
役所の窓口でダメだったものが弁護士を頼んでも、役所滅多にないミスがあったときだけですから、100に1も助からない・・99・9%の有罪率と同じ・・お上を信用している社会です。
アメリカでは弁護士を頼んでおけば、100のうち99助かる・・逆から言えば弁護士なしにうっかり空港にも行けない恐るべき社会です。
国民にとっては被害がしょっちゅうあって,その後に裁判出来るよりもお上にしっかりしてもらって、被害のない・少ない・・弁護士に頼む必要が少ない社会が良いのが日本人の意識・・正義感です。
日本では、訴えられるべき役所や企業の方が弁護士をつけて欲しいと言う逆の現象が起きています。
クレームを付けられている役所や企業の方が、正しいことをしている自信があるからです。
損害保険に弁護士保険が普及したのもこの延長で、業界として保険会社側だけ弁護士がつくよりは、被害者側にも弁護士がついた方が無茶言われないメリットがあります。
・・弁護士同士だと訴訟前の示談成立率が高くなるので、訴訟事件が減って却って保険会社の顧問弁護士に払うコストが低くなるメリットがある上に弁護士付き保険として割り増し保険料を取れるプラスがあります。
日本ではお上に対する不信感が低い上に役所や企業から説明されても理解し切れない人も、弁護士の論理的説明に納得する人が多いことにもよります。
ただ一定のモノ分りの悪い人、保険で弁護士料が出る・・お金の負担がないことから、「負けても良いから裁判してくれ」と言うモラルハザードもあって、これが最近弁護士にとって苦痛になっているようです(保険関係の弁護士の話)。
「お金が保険から出るから・・」と言われても、負けるに決まっている無茶な主張をしたくないので困るのです。
いくら保険が完備していても、強盗や殺人被害がない方が良い・・服部君事件でも分るように子供の訪問でも強盗と間違って銃で撃つような・不安に怯えて暮らしている・ピリピリした社会が理想ではありません。
自衛のために銃を所持なければならないとすれば、アメリカは法治国家ではあるが、法が行き渡らない・治安の悪いクニではないでしょうか?
道徳教育としては、何をしても後で捕まらなければ良い・・裁判で有罪にさえならなければ良いと言うことになりませんか?
裁判になっても腕利きの弁護士を頼めるかどうかによって結果も変わって来る社会って日本人からすれば不思議です。
賄賂や、コネで結果が変わるのとどう違うのか・・実質賭博行為でも公営競馬などなら犯罪ではないと言うのに似ています。
自助努力次第と言えば聞こえが良いですが、裁判する資力のない人には法が(あまねく)行き渡らない法治国家と言う表現は言語矛盾です。
日本は昔から厳しい法がなくとも、むやみに争わず自発的に道路や畑を綺麗にし,犯罪の少ない社会です。
アメリカの法治主義とは、法に頼るよりは各自が銃をもって自衛しろと言うことにつながります。
「法の支配」は権力から人民を守るためにあると言われて来ましたが、国民を守るための法秩序が実は頼りにならないとすれば,法制定権力・・政府への信頼が失われ・・ひいては共同体自体への信頼も失い・常時自分で銃を持っているしかなくなる・役所へ行くのに弁護士同行しないと不安な社会です。
どこの世界でも治安維持こそが権力維持の基礎と言われる所以で,治安を維持出来ない権力は国民の信を受けていないことと同義です。
屈強な護衛を連れて歩けば,目の見える範囲・・数十〜数百メートル四方に威令が行き届くでしょうが,見えないところであかんべエをされている人と,護衛が多くいらないし威張らないが,見えないところでも尊敬されている人ではどちらの方が威令が遠く,多くに届いているかの違いです。
この意味ではトランプ氏は何事もみんな自分でやらないと気が済まない・・一見華々しいですが,逆から見ると間接的に多くを動かす能力が不足している・・まだ組織化されていないだけか?ように見えます。
アメリカに限らず政府の仕事は多種多様・複雑ですから、目に見えないところで実直に働く人に支えられないと政治が回って行かなくなります。

事後審査社会→訴訟と保険の発達1

大統領令と民主主義のテーマに戻りますと、逮捕・拘束などの人権条項も仮に法で決められているルール無視で(日系人収容のように)大統領令だけで拘束出来るとすれば,法を作るべき議会の存在意義がありません。
罪刑法定主義など近代法の歴史は、法が国王(権力)からの人権侵害の防波堤・・人権を守るために出来たと習って来た(真実は支配の道具ですが・・)歴史から見てもおかしな制度です。
さすがに今回の入国申請者拘束には、直ぐに司法救済を求める人がいたらしく,米国時間2月3日に執行停止を命じる?決定が出て、日本時間2月5日付報道では、これが全国的執行停止効があると書いていましたので、個別審査妥当性ではなく命令そのものに対する違憲判断だったことになるのかな?
大統領が率先して法または憲法に違反行為をしていると言う司法判断となりますから、従来型価値観によれば政権のメンツ丸つぶれです。
これまで書いているように既存ルール破棄のための政権だと開き直れば別ですが・・・。
権力意思を遠くに及ぼすために法制度がある側面(これが本質でしょう)から見れば、権力中枢が法制度を自ら無視をしていることになると、国民は何に従って良いか分らなくなる・・社会が混乱して権力そのものの基礎が瓦解します。
これを防ぐために諸葛孔明は「泣いて馬謖を切」ったのです。
権力者は自らの権力貫徹手段である「法」を守らなくても良いと言うアナウンスを流すと自己矛盾に陥ります。
現在世界中が固唾をのんで見守らざるを得ないのは、世界覇者アメリカの最高権力者になったトランプ氏の構想する新たな世界秩序が不明であることによります。
クーデタや革命政権が権力掌握すると一刻も早く新秩序を宣言し、混乱を沈静化させるのに必死になる所以です。
革命政権の場合、日常的民事刑事手続きを除き一時的に革命の本質に関わる事項について司法機能の全面的ストップをかけるのが普通です。
トランプ政権は合法的政権獲得している関係で、既存ルールに従うしかないのが事態をややこしくしています。
そこで直ちに政権は異議申し立てすると報道されていましたが、2月6日の報道では控訴審で異議申し立てが通らなかったので、地裁の差し止め決定がそのままになったと報道されていましたが、7日の報道によると差し止めの取り消しが認めらなかっただけで本案の口頭弁論が開かれるようです。
どちらが負けても最高裁に訴えるでしょうから、最終的には最高裁の判断次第になります。
こうなると現在4対4の最高裁判事構成を覆すことになる欠員1名の判事任命がどうなるかが大きな争点になって来ます。
アメリカは日本と違い政治任命ですから、判事の政党色がはっきりしています。
だからこそオバマ政権時代には、共和党多数の議会承認を得られず約1年間も欠員のママだったのです。
トランプ政権としては議会多数派になっているので政権寄り判事任命に自信があるのでしょう。
これが出来上がると議会は共和党多数ですし、司法とのねじれも解消されることになります。
訴訟の帰趨は措くとしても、このシリーズの関心は大統領が議会の同意なしに大統領令に署名さえすれば、違憲判断が出るまで法に優先して有効になる・・これが日系人だけ強制収容出来た法原理です・・人権保障としては非常に怖いシステムであることの関心です。
大統領令が議会より優位の法を作れる・・次々と大統領令を出すと法制定の議会はいらない・・憲法違反まで主張しないと救済されないのでは,先進国の証しは三権分立制度が確立していることであると学校教育は噓を教えて来たのではないか?となりませんか。
現状を見ると司法権と大統領府との2権分立でしかありません。
その司法権も政党色で選ばれるのですから、日本とは大違いです。
大統領令の濫発で為政者が(自制心なく)法制度無視行為をドンドンやって、その都度司法権による差し止めが繰り返されるようになると、・そのうち国中で法を無視する行動が頻発するようになるのではないでしょうか?
ただし、元々革命は既存法の延長では出来ませんので、トランプ政権の政策が既存秩序に対する挑戦・一種の「革命」とすれば既存法に矛盾する政策を打ち出すのは当然のことですので、既存秩序に反することを非難論拠にするのは間違っています。
従来型革命は数週間の暴動等を経て短期間でぶちこわすものですが、今回は選挙を経ているので革命に見え難いだけ・新しい形式の革命?だったことに後でなるのかも知れません。
革命だったのか無茶苦茶だったのかは昨日書いたように時間をかけて分ることです。
このシリーズではトランプ政策の是非ではなく、戦時中の共産党親和政策や日系人強制収容や戦後の米中和解や戦後のスーパー301条などを軸にアメリカの民主主義・自由主義の主張は自国のヘゲモニー維持を主目的にした表向きの宣伝だけだったのはないかの関心で書いていますので元に戻ります。
司法の救済があっても,政府が率先して法(長年共同体意識を培って来た合意・人類が長年掛けて積み上げて来た歴史遺産)を無視してドンドン違法行為をしてこれを自慢しているようでは,個別救済の司法救済では間にあいません。
大災害が起きると既存のセーフテイーネットでは間に合わないのと同じで、司法救済制度も政府は滅多に違法行為をしない前提で成り立っているものです。
日本で違憲判断が出ると政府はこれを尊重してすぐに法改正しますが,トランプ大統領に限らず自分の意見に合わないと「受入れない」と宣言するのがアメリカのやり方です。
クリントン氏がオバマの移民に関する大統領令を違憲とする「最高裁判決を受入れがたい」と宣言していたことを2月3日に紹介しました。
・・我が国でも左翼系は自分の意に沿うと画期的判決と言い、主張が通らないと反動判決と批判しているのと同じです。
要するに相手の意見を受入れる許容性がない民度・社会・・元々違う意見を認め包み込んで行く能力がない民度では、民主主義の実践は無理です。
事後審査に戻しますと、刑事制度は犯罪を摘発して処罰することが直接の目的ですが,処罰することで犯罪が起きないようにすることが本来の目的です。
報復心だけを基準にすると刑罰重視を時代遅れだと非難し、被告人の人権ばかり・服役内容も快適なホテルみたいな方向へ進み過ぎます。
刑事政策は、本来の目的は治安維持ですが、これの協力を得るために被害者の報復心も利用していると言うべきです。
犯罪がいくら発生しても良い・・後で検挙するから・・と言うのでは,治安維持を目的とする刑事政策に反しています。
泥棒や無法者が町を闊歩する自由があって,一般人が被害にあえば訴えれば良いですよ・・と言うのでは国民は安心して生活出来ません。
大統領や役人が率先して実質違法行為をしていても、不満なら裁判すれば良い・・裁判制度が完備しているから間違っていれば違憲判断してくれるよ!これが法治国家だと言うのでしょうか?
裁判出来ないよりもマシですが・・。
日本の刑事裁判では99、何%の有罪率であることが有名ですが、文化人が「これでは裁判の意味がない」と嘆くのが普通ですが本当にそうでしょうか?
大分前に(小泉改革だったか?)我が国も、事前審査をやめてアメリカのように事後審査の社会になるべきだと言う論調が風靡して、その方向に舵を切り始めましたが民族意識・・常識と合わないらしく、あまり定着しているように見えません。
粗悪品でも何でも作って市場に出して「中毒事故が起きたら損害賠償して治せば良い」と言うのでは、国民が困ります。
犯罪検挙も確かな証拠もなくても、先ずは検挙して勝敗は裁判所が決めてくれたら良いと言う運用も同じ発想です。
これでは裁判の無罪率が上がるわけですが、大雑把な捜査ですぐに裁判される(・・その代わり原則として保釈を認めて長期勾留を防ぐ運用ですが・・)のでは国民は叶いません。
戦後は何でもアメリカ迎合・100%受入れている韓国では、最近も検察が証拠もないのにデモの勢いに圧されてサムスン副会長の逮捕請求して裁判所にはねられました。
数年前には、ソウル産經新聞支局長に対する名誉毀損罪の起訴でも分りますが、(仮に身柄拘束されなくとも)あとで裁判で無罪になってもその間の言論萎縮効果・・被告人にされた方の精神苦痛は絶大です。

大統領令4と法(異民族と価値観分裂1)

アメリカ国籍を持っているのに、日系人と言うだけで強制収容したり、クリントン政権の対日100%もの極端な差別課税を課すための行政命令?・・今回のアラブ7ヵ国人だけ標的の入国禁止令・・メキシコ国境に壁を作るなどの共通性をみると人種差別や対外行為・要は国内少数派相手ならば、法に基づかずに何でも出来るような大統領令制度が有効なクニって?近代法治国家と言えるかの疑問でこのシリーズを書いています。
フィリッピン大統領の犯人射殺命令に対しても、(これがフィリッピン社会に適合しているかどうかの判断は別として反対者さえ少なければ良いのかの基準ここでは書いています)犯罪集団が反対デモ出来ませんし、その支持者も少ないでしょう。 
反対さえ少なければ正義に反するかどうか無視して何をしても良いので社会が成り立つかの疑問です。
正義の基準と言うと何が正義か不明・・「アラブ人を収容所に入れることがテロを防ぐために正義」だと言う多数決が仮にあるとした場合、誰が正義を決めるのだと言う意見が出て来そうです。
喩えば、誰も疑わない正義→1+1=2が正しいときに、多数決で1+1=4にしたり、3+3を2にしたり出来るクニ・社会が成り立つのでしょうか?
1ヶ月すると大統領の考えが変わって大統領令で1+1=6にしたり、3+3を5に変えたりする社会って持続可能でしょうか?
数学的合理的基準・・合理性無視の政治は出来ないとしても、「天賦不可譲の人権」思想を数学的正しさの必要性と同一視出来ないことも確かです。
何が人権でどう言う場合にどこまでの制約が許されるかの基準・正義は、民族ごとの歴史的経験・・積み重ねによるしかないと思われます。
この種の正義は共同体の長い期間を経た共通意識によるとすれば、共同体の理想型は価値観共有社会と言うべきです。
同じく国際正義も長年かけて合意形成されて来たものを当面の「正義」として尊重するしか秩序が保てません。
日本の場合で言えば、漸進的変化・・既存価値を認めた上で、(古いお祭りや、様式美がそのまま残って行く)新たな価値を積み上げて行くので社会が何千年も安定的に推移して来ました。
これが大災害時にも略奪に走らずじっと救援を待つ・・相互信頼社会が構築されている基礎構造です。
長年かけて形成された民族合意・国内秩序や国際合意・国際秩序が気にいらないからとイキナリ、否定・ちゃぶ台返しの主張は、国内的には民族共同体意識の否定・・国際的には既存国際秩序の否定を企図することになります。
既存秩序破壊を訴えるのは、漸進主義主張より激しい分(家の修理をしますと言うより、ビルを建て替えると言う方が夢があります)人目を引きつけますが、トランプ氏の主張は現秩序を破壊したあと何をするのかがもう1つはっきりしないことが問題です。
反政府運動や国際秩序挑戦者としてならば、(赤ちゃんは泣くだけで良い・・自分で解決策を示す必要がありません)不満をぶっつけるばかりでも意味がありますが、権力者である大統領になっても既存秩序破壊を主張し続けるだけでその先の展望を示さないのでは、自己のよって立つ共同体統合をぶちこわす自己矛盾行為となるリスクがあります。
トランプ氏の場合アメリカンファーストと言うだけで(政治家たるもの国益第1は当然で全く新味がない)国内外に対して移民排斥論以外に新しい方向性・・正義を示せていません。
移民排斥論も・・「家に閉じこもりましょう」と言う次元で、その後の国家運営の提案がありません。
移民排斥や二国間主義=管理貿易逆戻り政策は、その先にどのような国際秩序を構想しているのかがまるで見えていません。
何と書く「強い者が何をしても勝手」と言うルール不要の野獣の世界に戻るような印象を受けます。
もっとも政治はすぐに分らなくていいのですが・・新たな価値観の提示が出来ないままで既存秩序をぶっ壊すだけで終わると(鎖国も1つの政策ですが・・これが国益になることをきちんと説明出来ないと)、単なるストレス解消・・民衆騒動・・(赤ちゃんが泣きわめくだけのような)暴動を政治家が煽動しているだけになります。
高校生が不満だからと、校舎のガラスを割って歩いたり、授業が荒れて授業にならない→教育政策の見直し、赤ちゃんが泣く場合、ミルクやおむつの取り替えあるいは、どこか具合が悪いのかなど気が付く効果・・対策の必要性を訴える効果がありますが、為政者・権力者は自ら政策を立案する立場であり世間に訴える立場ではありません。
過去に積み重ねて来た正義感・生き方が間違っていると主張する場合、間違っている・・納得出来ないと騒ぐだけなら民衆暴動や子供が泣き叫ぶのと区別がつかない・・どうするかを提案すべきがリーダーの責任です。
移民を多く入れると経験して来た歴史の違う集団同士になるのですから、価値の分裂が起きるのを防げない・・来たばかりでものの考え方習慣の違う人と同胞意識がある訳がありません。
トランプ氏は、移民を制限することによって、共同体意識を時間をかけて築いて行く長期展望を考えているのかも知れません。
隣近所の人とは挨拶程度で良いのですが、他人と同居するとなれば、余程気が合わない限りイヤだと思うのが普通です。
これを無視して「寛容の精神で受入れましょう」と移民導入を煽って来たのが、いわゆるPCの流布強制であり欧米社会でした。
外国人が観光や商用で短期間だけ来る程度では許容範囲ですが、毎日一緒に暮らすとなれば、許容範囲を超えていると思う人が普通ではないでしょうか?
異民族と一緒でも良いと覚悟を定めて移民して来た外国人自身が、一定数以上になって来ると◯◯人町など集団で居住するようになるのが普通であることを見れば、移民自体が気の合う仲間・・気持ちの通じる仲間を求めていることが分ります。
これが普通の人情であり、「異民族と仲良く暮らしましょう」と言うのは、やせ我慢・・無理があります。
よその人は他所の人のままで、一定の距離を置いてあっさりとつきあうのが大人の智恵です。
敢えてべたべたと同居する必要はありません。
民族的言えば、外国人が入って来ても一定期間限定の訪問者程度に限定しようとするのは1つの許された主張だと思います。
労働力獲得目的に異民族を多く入れることによる共同体意識拡散〜対立のマイナス(これは低賃金労働者導入だけの問題ではなく知的労働者の方が出身民族の価値観を身につけていることが多いために逆にリスクが高くなります)に気が付かないで来たのが欧米です。
あるいは気が付いていても金儲けの方を優先して敢えて無視して(特に民族差別を厳しく批判する)PCを事実上流布させて言論統制して来たトガメが出て来たとも言えます。
移民導入論者によって多様な人材が入れば多様な発想が可能になるメリットがしょっちゅう・・ダイバーシテイーなどと宣伝されますが、古くは遣唐使、南宋の朱子学や水墨画、禅宗、火縄銃、幕末欧米文化流入、明治維新でのお雇い外国人等々の歴史を見ても、鉄砲職人集団や学者集団や僧侶集団、画家音楽家などが大量に移民してくる必要がなかったことが明らかです。
日本の精神界に大きな影響を与えた仏教伝来でさえ、古くは来日したのは鑑真和上程度ですし、大量に人材導入した明治維新時の御雇外国人でも、各分野ごとにせいぜい1〜2名で、しかもあっという間に御引き取り願ったことが知られています。
全人口比で言えば10万人に1人2人程度の流入により違った角度からの意見を求め刺激を受けるのはわさびのように重要ですが、各分野で何万人・・合計人口の5%〜1割も入って来る必要がありません。
一定量以上になると自衛のために出身別に集団を作り固まる傾向(今は地域的に固まって住まなくとも通信手段の発達で別の形)があるので、却っていつまでも地元民と融合出来なくなるリスクが高まります。
アメリカも旧ユーゴスラビアのようなモザイク国家になりかけているのではないでしょうか?
これを抑制するために移民流入を抑制すること自体は政策判断の範囲内であって合理的であり、かつ主権行為ですし、これが何故憲法違反になるのかは(大統領令自体見ていないこととアメリカの憲法条文を知らないので)不明です。

政治と訴訟の関係(イチャモン訴訟?)

イチャモン裁判の疑いのある例で最近有名なところでは,沖縄県の普天間基地移転工事許可取り消しによる訴訟を見ておきましょう。
http://www.chunichi.co.jp/article/front/list/CK2016121302000089.html
辺野古訴訟、沖縄県の敗訴確定へ 最高裁、弁論開かず
九月の一審判決は、翁長知事の取り消し処分の前提になる仲井真弘多(ひろかず)前知事の埋め立て承認に違法性があるかを審理。「仲井真前知事の承認に裁量権の逸脱はなく、取り消した翁長知事の処分は違法だ」と結論付けた。
 その上で、「普天間飛行場の騒音被害や危険性は深刻な状況で、閉鎖して改善するしかない。被害を除去するには辺野古に移設する以外ない」などと指摘。国の判断は尊重すべきだとし、辺野古移設によって「全体としては沖縄の負担が軽減される」とも言及した。」
以上のとおりですが,
普天間基地は住宅密集地近くで危険だと主張していたのでその弊害除去のために日米で漸く合意して,大金を投じて基地を過疎地に移転させしかも一部?沖合移転することによって,大幅に騒音その他の弊害除去に貢献することなったにも関わらず、イザ移転が決まると翁長知事や革新系文化人の応援する勢力は今度は一旦前県知事が下した工事許可を合理的理由もなく取り消して工事妨害する方法に固執しています。
裁判で負けても今度は何か(ケチを付ける材料を見つけて)飽くまで反対の挑戦する姿勢・・印象の報道が出ています。
http://ryukyushimpo.jp/news/entry-410472.html
「翁長知事は「確定判決には従う」と述べており、最高裁判決後にも埋め立て承認取り消しを“取り消す”見通しとなった。国が新基地建設工事を再開する法的根拠が復活する。一方、翁長知事は敗訴した場合でも「あらゆる手法」で辺野古新基地建設を阻止する姿勢は変わらないとしており、移設問題の行方は不透明な情勢が続く。」
工事が進行すれば,相手が海なので予定外の事態が起きるのが普通・・一般的にこの種の工事計画は進捗に合わせて修正しながらやって行くことが普通らしいですが,計画修正・変更の申請が出たら「そのとき許可しない・許可を出来るだけ引き延ばす」などの抵抗が出来ると言うニュアンス報道されています。
肝腎の普天間基地→辺野古沖移転の可否に関する議論をするのではなく,反対のためのあら探し・嫌がらせ的妨害をする予定を今からはっきり(報道姿勢なので真実は不明)させている印象です。
これでは後進国の独裁政府が恣意的に特定企業に嫌がらせするのと同じで、法治国家としてのルール無視・反民主主義的・専制権力者になったかのようです。
政治は県民の現在被害縮小・利益極大を図るのが王道ですが,知事が何のために反対のための反対を続けるのか不明・・民意無視してあらそうためだけの争いをやめるべきはないかと思う人の方が多いのではないでしょうか?
反対運動支持の琉球新報や革新系新聞の記事を見ても,「県民無視の移転をやめろ」とか言うイメージ(私はネットでたまに見るだけなので正確性には欠けますが)を受けますが,何が県民のためになるかの対案も具体論が見えません。
鳩山元総理の言う「少なくとも県外へ・・」程度の空理空論しか言うべき論理?がないようですから,合理的政治運動とは言えません。
ただし,沖縄だけが被害を受けていると言う感情論理に使える技巧ではあります。
政治論は政治の世界で決着をつける・・政治の議論で決めた以上は政治・民意に従うべきで,これを言いがかり的訴訟や小細工で引き延ばしを図るのはルール違反です。
「元々基地があるのが行けない」のだと言っても,そう言うことは政治レベルで決めることであって政治決着のついたことを工事許可権を濫用して自説を押し通そうとするのはルール違反です。
政治と司法の関係はNovember 12, 2016,「司法権の限界16・謙抑性4(民主主義の基礎1)」まで書き掛けで中断していますが、この後で司法の謙抑性の原理等として再開予定です。
政治で決まったことを妨害するために土俵外で嫌がらせするのは、近代民主主義社会で確立した最低ルールを守れないレベルです。
実現不可能な全面講和論に固執して、ソ連系を除く諸国との講和条約によって兎も角「一日も早く日本独立をしましょう」と言う意見に飽くまで反対していた→日本独立反対論・・その後ずっと,日本自立の機会をコトあるごとに反対し続けて来た旧社会党と同じやり方です。
「基地がある限り返還拒否」と言っていたのでは、今の北方領土同様に今でも占領下のママだったでしょうし,どちらが良かったかは自明です。
日本の国益よりはどこかの利益のためではないかと思われ兼ねない主張ばかりするのは実質的憲法違反行為ではないでしょうか?
国民主権・言論の自由とは,国民のためになる議論を主張出来るのであって外国の利益のために主張する権利の保証ではありません・・。
中国の領海侵犯の繰り返し・攻勢に対する防衛努力・・集団自衛権問題に対しても,どうやって国益を守るかの意見・対案がなく,憲法違反と言うばかりです。
非武装平和論は沖縄だけが基地の多くを引き受けている(少なくとも県外へ!)と言うのと同じで対案とは言えません。
憲法は国民のためにあるのであって憲法さえ守れば,国民が他国に侵略され奴隷的立場になっても良いと言う制度ではありません。
民主主義の精神を実質的に否定する(憲法のよってたつ原理に反する?)勢力が「憲法を守れ」と言うのですから、歴史を捏造している方が「歴史を学べ」と言うのと同じ印象を受ける人が多いでしょう。
沖縄県民または沖縄人がこう言う人を選挙で再選するのであれば,日本国益に反する集団・・国民の一部としての沖縄県民ではなく,沖縄人でないのか?と疑問を持つ人が増えるのではないでしょうか?
こんな人たちのために、国費を際限なくつぎ込む必要があるかの議論コソ先決です。
沖縄復帰後現在まで投下された資金は・・http://www7b.biglobe.ne.jp/~whoyou/miyatahiroshi090725.html2016年12月18日(日)更新版によると「復帰後、8兆8000億円の内閣府計上の沖縄振興事業費が投下された・・」とあります。
上記によれば,現在も基地使用料等の不労所得中心経済になっている・・それが政府の責任と言う書き方で不思議な論文ですが?これでは,反対のための反対ばかりしたい心情になるのも分ります。
反対運動によって補償額がつり上がり沖縄への援助も膨らみますが,本当に普天間から移転してしまえば普天間基地周辺人のたちの地代収入その他(騒音?)保障・・勤務先・商売人に取っては客が来なくなり,生活が成り立たなくなる恐れ・・も分ります。
他方で移転先の辺野古では海岸埋め立て・・漁業補償金は既に払われているでしょうから、いくら工事が長引いても長引くほどその間漁業が出来て有利です。
数ヶ月前に騒音被害苦情に対して基地の約半分返還目的で縮小工事に着手しようとすると地元で反対運動している理不尽さを(しばきたい幹部逮捕に関連して)紹介しましたが,基地がうるさい・危険と言いながら移転や縮小が決まるとそのための工事に反対する身勝手な行動をして羞じないのが不思議です。
反対運動の合理的理由が見えない以上,返されると地代や騒音保障・・基地移転等のマイナス・各種基地労働に通えなくなる外,関連出入り業者や近隣商店も売上減になるので移転に反対したいのかな?と推測する人も増えるでしょう。
そもそも普天間基地周辺に人家が密集していて危険と言う報道自体不思議です・・基地と言うのは元々住宅街のまん中に出来るものではありません。
沖縄の人口が増えた?としても、何のために危険な?基地周辺に引っ越して来たのか?となります。
基地就労者その他が増えて人家が集まって来たのではないかの疑問があります。
辺野古への移転が終われば,年月の経過で周辺に人家が増えるのではないでしょうか?
こうした時系列の議論を見たことがありませんが,マスコミは敢えて伏せているのではないでしょうか?
合理的意見を全く言わず「沖縄県民の痛みを知らないのか!」などの感情論ばかり報道されていますが,こればかり押し付けられていると却って同情する気持ちが減って行く人が増えるのではないでしょうか?
本音は何なの?と疑問に思う人が増えて来るのは当然です。
民主的手続を経て決めたことは、ドシドシ実行して行く・・民主主義を守る姿勢が必要でしょう。
タマタマ数日前にオスプレイの不時着事故がありました。
一般的に言えば民家を避けて海上に不時着出来たのは良い(立派な)ことですし、事故による被害が負傷程度で良かったねと言うのが普通の人情です。
これを鬼のクビでもとったかのように非難し続ける沖縄人の人間としてのレベルを疑う報道がないのが不思議です。
鬼畜米英の時代に不時着した捕虜を棒切れで叩くのさえ褒められたものではありませんが,いま日米はそう言う関係ですらありません。
実質的意図は別として米軍は日本防衛の一翼を担っている関係です。
65年安保条約によって日本がいつでも更新拒絶すれば,1年後に失効する仕組みになったコトを紹介しましたが,日本政府・国民は条約を継続する方が国益になると判断して(民主党政権も社会党の村山政権も)条約を維持して来た以上は互恵関係ですから,条約に従って駐留している米軍を親の敵のようにあしざまに対応するのは条約の精神に違反する行為です。
客として招待しながらお客が転んだり,困ったことが起きると助けようとしないで嘲笑しているような失礼な行為です。

日本と信教の自由2(津地鎮祭訴訟)

日本では信教の自由がなくて庶民が苦しんだ歴史がありません。
古代に天皇家自身が佛教を取り入れても神社を尊崇するなど自由自在でした。
「神も仏もないものか!」と言う嘆き節がありますが,日本人はどちらにすがっても良い関係でした。
まして佛教内宗派などは,どうでもいい状態でした。
一向一揆・あるいは信長が石山本願寺と戦ったのは,本願寺が足利義昭をバックに武田や毛利と信長包囲網を形成していたから戦っていたに過ぎず,本願寺勢が講和(天正8年閏3月7日(1580年4月20日誓紙提出)によって石山本願寺を退去した後は争っていません。
庶民が宗教の縛りに苦しめられた経験がありません。
閉鎖的な教会の建物に比べて日本のお寺は八方吹き抜けのお堂が中心で開放的です。
神社も同様です。
庶民にとってお寺や神社はいろいろなお祭りなど楽しむための場となり、京都の東寺の例で分るように市をたてる場ともなり、あるいは子供の遊び場になりひいては寺子屋と言う教育の場になり・集落の寄り合い場所にもなっていました。
私の子供の頃の経験では,朝のラジオ体操の場になり,夏休みには多様な年齢の子供がみんな集まって宿題をやったりもしました。
真夏の夜の楽しみ・・祇園祭などは神社でやっていました。
地域みんなのために奉仕する精神の発露が,戦後アチコチのお寺で始めた保育所・幼稚園でしょう。
女性が働きに出るようになると幼児の面倒を見る必要が出て来て預かり始めたのが始まりです。
庶民の多様な救済や楽しみを奪う排他的宗教が禁止されていた・信教の自由を積極的に守って来たのが歴代権力者の仕事でした。
新憲法によって欧米の経験による信教の自由が明記されるとオーム真理教のように無茶をしていても簡単に取り締まれなくなって聖域化しているマイナス効果の方こそ問題です。
宗教法人は簡単に出来るし何かと言うと憲法違反と言われるので,司直の手が入り難くなったので,ヤクザその他(節税にもなります)がこれを隠れ蓑にして宗教法人化するのがこの数十年來の大流行です。
オーム真理教事件は氷山の一角に過ぎません。
憲法
第十九条  思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。
第二十条  信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。
○2  何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
○3  国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。
第二十一条  集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。
○2  検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。
明治憲法には,以下の通り信教の自由に関する独立の条文がありません。
第2章 臣民権利義務
第19条 公務への志願の自由
第20条 兵役の義務
第22条 居住・移転の自由
第29条 言論・出版・集会・結社の自由
第31条 非常大権
日本では、排他的宗教が大嫌い・言論自由が原則社会でしたから、西洋で信教の自由が必要とする社会とはマ逆の社会でした。
食後の人にはお茶が良いのですが,空きっ腹の人にはお茶よりも栄養のあるものの方が良いのとの違いです。
日本では信教の自由=言論の自由がある代わりに言論のルール・・嘘つきや他人の悪口を言うのは御法度の道徳律が古代から確立している社会です。
言論の自由の歴史がない結果,表現の自由とセットになっている言論のルール・・嘘つき・告げ口等が許されないルールが分らない・・でっち上げで何でも言いたい放題の中韓政府とでは議論が噛み合ない原因です。 
民主主義社会では決めたことは(相手が誰であろうと)守る前提になりますが、専制支配下では恣意的命令が基本ですから約束を守るよりも,強そうな人の様子をうかがって,その意向に従う方が重要です。
昨年ドイツのメルケル首相来日時日韓慰安婦紛争や南京虐殺騒動などに関して「日本が周辺国と戦後和解出来ていない・・」(のは日本の責任だ)「ドイツに見習え」と言うキャンペインをしていたマスコミ質問に対して「良い周辺国に恵まれているので・・・」とメルケル首相がうまく交わしたように・(良いクニでない)こういう国が周辺にいることが日本の苦労です。
日本は先進国基準で言えば,周辺国と十分な和解が出来ています・・中国を代表する国民政府と和解し,本来必要のないその後を継いだ中共政権とも念のため改めてに和解しています・・韓国とも父親の朴大統領時代に日韓交渉で充分過ぎる保障をして和解しています。
和解に基づく日本の巨額経済援助の結果高成長出来たことに味を占めて,彼らはまた金になると思って蒸し返して来たと多くの日本人が思っているでしょう。
アメリカの要請もあって,仕方なし2回目の日韓合意をしましたが,日本からの金の振込が終わると再び韓国では昨年の日韓合意は大統領罷免と連動して,また無効だと言う動きが始まっています。
こういう国とは,(民意水準が簡単に上がらないでしょうから)朴クネ大統領の言うとおり「千年付き合わない」方が良いでしょう。
欧米にとって死活的重要性のある信教の自由が(日本では元々普通である)我が国で改めて明記されたことによって,何か意味を持たせるために歴史本質を離れてケチ付け訴訟のタネになっている例として・・津地鎮祭訴訟に関するウイキペデイアからの引用でみておきましょう。
「津市体育館建設起工式が1965年1月14日に同市船頭町の建設現場において行われた際に、市の職員が式典の進行係となり、大市神社の宮司ら4名の神職主宰のもとに神式に則って地鎮祭を行った[1]。市長は大市神社に対して公金から挙式費用金7,663円(神職に対する報償費金4,000円、供物料金3,663円)の支出を行った。
これに対し、津市議会議員が地方自治法第242条の2(住民訴訟)に基づき、損害補填を求めて出訴した。」
「最高裁判所は(1977年7月13日大法廷判決)
「わが憲法の前記政教分離規定の基礎となり、その解釈の指導原理となる政教分離原則は、国家が宗教的に中立であることを要求するものではあるが、国家が宗教とのかかわり合いをもつことを全く許さないとするものではなく、宗教とのかかわり合いをもたらす行為の目的及び効果にかんがみ、そのかかわり合いが右の諸条件に照らし相当とされる限度を超えるものと認められる場合にこれを許さないとするものであると解すべきである。 (中略) (憲法二〇条三項の禁止する宗教的行為とは)およそ国及びその機関の活動で宗教とのかかわり合いをもつすべての行為を指すものではなく、そのかかわり合いが右にいう相当とされる限度を超えるものに限られるというべきであつて、当該行為の目的が宗教的意義をもち、その効果が宗教に対する援助、助長、促進又は圧迫、干渉等になるような行為をいうものと解すべきである。
本件起工式は、宗教とかかわり合いをもつものであることを否定しえないが、その目的は建築着工に際し土地の平安堅固、工事の無事安全を願い、社会の一般的慣習に従つた儀礼を行うという専ら世俗的なものと認められ、その効果は神道を援助、助長、促進し又は他の宗教に圧迫、干渉を加えるものとは認められないのであるから、憲法二〇条三項により禁止される宗教的活動にはあたらないと解するのが、相当である。」
判決ではフランス革命の歴史まで説き起こす必要がありませんが,妥当な結果です。
信教の自由は魔女狩りや自由な言論弾圧,悲惨な宗教戦争を阻止するべく生まれたものであって,百円〜数千円の寄付を禁止するためにワザワザ憲法で規定したものではありません。
憲法学者は「蟻の一穴」と言うのでしょうが、物事は程度問題ですからこれを越えると揚げ足取りの評価になります。
野党の国会対応を見ていると揚げ足取りに終始していて自分の主張が見えない傾向があるのはこのような戦術に長年堕している結果です
人の表情やモノ腰態度も全て人格表現の一部と言えば言えますので,これを理由に四六時中部下や子供を叱ってバカリではイジメの一種で部下はイヤになるし子供はぐれてしまいます。

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