徴用工訴訟と国内法論理(米中対決の相似形?)2

韓国に思い知らせてやれ!という嫌韓感情論者が気にいるような結果になるかは、米中対決の激化によって韓国の対中輸出激減方向ですので韓国輸出企業生産が落ち込むこの時期はチャンス・・韓国経由の対中輸出製品への部品組み込みが減る・・韓国内で工場を維持するメリットが減るこのチャンスを先取りするかどうか程度のことになります。
5月21日の日経新聞3pによれば、ファーウエィの中国国外でのスマホ出荷台数は、全体のほぼ半分を占めるダントツ(ただし欧州ではサムスンが首位)であるが、ドイツ半導体企業がファーウエィ向け部材供給の一部を停止したと出ていて、その影響を書いています。
上記記事を見ると日本にとってのファーウエィ規制に対する意味合いは、ファーウエイにどんどん追い抜かれ始めて経営不振に陥りかけているサムスンの売り上げ増になり米中対決は韓国に有利に働く面があり、強気にさせる側面があるということです。
・・ただし日本の半導体設備企業がドイツに倣ってサムスンへの供給停止するとどうなるか・そうなればサムスンは上記ドイツ企業に供給を依頼する可能性が高いでしょう。
ドイツ企業にとってはファーウエィ向け輸出がなくなった穴埋めになるので、積極的にサムスンへの売り込みを図ってもおかしくない状況です。
ドイツから売り込み競争激化の真っ最中に、その防戦に努める日本企業が供給停止できるかの疑問です。
玉突き現象の究極のババを引くのは、日本かもしれません。
米中対決による中国の対米輸出激減の影響・・対中輸出比率が世界一高い韓国が一番影響を受ける・・工場稼働率激減というのがマクロ的見方でしょうが、個別にみると意外に複雑です。
複雑化の原因は、日系現地工場の大さにも比例します。
資本収支で言えば、工場や店舗投資はホットマネーと違うと言われる所以です。
韓国の対日依存度低下を主張する小塩氏意見に対して、今は現地生産が進んでいるので貿易収支だけで見るのは間違いだと書いてきましたが、実は対中関係でも現地生産化が進んでいるので、日本や韓国の対中貿易依存度だけでなく中国現地生産の規模も合わせて読む必要があります。
韓国の対中貿易が25%を占め世界最大比率としても、現地生産比率と合わせないと総合的影響度がわかりません。
今朝の日経新聞1pでは日系企業の米国向け輸出品の中国での現地生産額(例えば任天堂のゲーム機の米国向け製品は100%中国生産らしいです)は約1兆円と出ています。
韓国が輸出に比べて対中投資比率が少ないとすれば、日本の方が現地投資規模が大きいとすれば、輸出先振替と違い簡単に工場移転できないので、日本の方が受ける悪影響が大きいことになります。
工場移転による納入業者の経営悪化や雇用環境悪化等については、輸出に頼らない日本の方が影響が少ないでしょうが、企業利益としては工場は簡単に動けないので打撃が大きいのです。
先の読みは別として、韓国輸出の25%を占める対中輸出が減れば、韓国内工場稼動率が下がる→韓国内の輸出企業向け部品供給を目的に進出していた日系企業の工場も稼動率が下がります。
韓国企業自体米国向け輸出のために中国での組み立て工場の稼働率を下げるかやめるしかないので、ベトナム等へ工場移転するしかないのと同様に、韓国内日本系工場もアジア諸国へ分散方向になります。
結局は嫌韓か反中どうかの感情論ではなく、経済合理性が勝負を決めることになります。
今朝の日経新聞にも出ていますが、25%の関税でもすぐに中国を出て行く選択肢は多くの企業にとっては難しいので、各企業のおかれた状況によって対応が違うのは当然です。
単なる輸出先であれば販売相手の新規開拓でいいのですが、工場進出している場合長期的視野でないと安易に工場移転はできません。
中国も必死に引き止めているでしょうから、これを振り切って出て行くと将来に禍根を残します。
いつ米中和解ができるかも不明なので、移転した直後に米中和解で関税がなくなると大損するリスクがあります。
新規工場進出するのは、現在の25%関税が元に戻ってもベトナム等でやっていける成算がないと簡単に動けないでしょうし、一方で米中対決がいつ解決するかわからないのにその間赤字経営を続けられないというジレンマです。
以下紹介しますが、韓国、中国から出て行く、あるいは生産の一部移転を発表する企業が出れば待ってましたとばかりに嫌韓、反中系ネットで拡散しますが、これらはもともと長期ビジョンの一環で計画していた実施時期がたまたまこの時期に当ったと場合が多いと見るべきでしょう。
東南アジアに多くの進出工場を持っている日本企業の場合、韓国や中国内工場をすぐ閉鎖するのではなく当面タイやベトナム等に分散している工場の生産比率を上げてそこから米国向けに(中国国内工場製品は米国向け以外に振り向けるのは、物流系の再編などもちろん大変ですが一応容易です。
元々韓国から移転計画があった場合やチャイナプラスワンを計画中の企業は計画の後押しになるでしょうが、何も予定していなかった企業にとっては降って湧いた災難で、どうして良いか不明でいきなり動けないし、焦って動けば大損失になるので様子見という現状維持にとどまるしかないでしょうから大変です。
こういう企業経営陣は運が悪かったというよりは、危機管理能力が低かったので右往左往していただけだったとの評価になる可能性があります。
今朝の日経新聞では25%の関税上げそのままではゲーム機であれ、テレビであれ売れなくなるがメーカー負担では持たないが、この時点だ大規模な工場移転となれば、巨額費用がかかるので
「25%のコスト増」どころではない・・かといって25%負担では採算割れになる・・動くに動けないジレンマに困っている企業が大多数であるような意見を書いていました。
要は見通しが悪くて「機敏対応」できない企業が多いという意味でしょうか?
環境激変時に腰を抜かしてみているような企業が99%の時に機を見るに敏な人が時代激変後のリーダーになっていくし、(渋沢栄一のような人?)時代変化をぼんやり見ているだけで時代に取り残され没落していく旧時代人との違いです。
活力を以て変化を生き抜け!という元気を出すための意見ではなく、どちらかといえば困っている人が多い・・トランプ氏の強引な行動は中国が困るだけでなく日本企業にとっても迷惑だという中国寄りのイメージ主張のようです。

スラップ訴訟の法原理6

日本では砂川事件大法廷判決でアメリカで発達していた統治行為理論が採用されたことが知られていましたが、この統治行為論自体・・憲法分野でも司法の限界をきっちり議論していたことになります。
日本では裁判を受ける権利があると言えば一般的には天下御免の印象ですが、これにも司法権に内在する限界があるのです。
砂川事件後50年ほども経過した今、アメリカ式の厳格な司法の限界論「戒律」的理解・・統治行為論があやふやになってきた印象です。
労働事件で顕著なように「管理職」にすれば労働法の規制適用対象外になるのではなく、具体的な業務内容によるので「本質は細部に宿る」時代です。
部分社会論は、司法審査の限界をいうのに初期的には便利な概念でしたが、今や具体的争訟内容によって司法審査の及ぶ範囲を決めていくべき時代に入っているのでしょう。
日本では社会常識的・・政治的に支持を受けられない少数者が「訴訟に訴えれば何とかなる」というか、ともかく納得していない意思表明のための願望的訴訟が伝統的に行われてきた傾向があります。
現在の「違憲の安保法を許すな1」と言う大合唱も同じ流れの印象です。
社会全体がそうなのなか、そういう(往生際の悪い)人は極く少数なのに反体制派が極く少数者を炊きつけて訴訟を起こして来ただけか分かりませんが・イサギ良くない・印象・・いわば甘えの構造です。
一神教原理の厳しい社会構造のアメリカでは、政治は政治の場で争うべきであって、政治の場で負けた以上は潔くすべきであって、訴訟の場で蒸し返し的争いは許さない価値観がはっきりしているようです。
潔いと言えば、大統領選挙で息子のブッシュに負けたゴア元副大統領が選挙開票作業の不正?がとり沙汰されていましたが、勝敗が決まるとこれを争わず潔よい姿に感銘を受けた記憶があります。
16年の大統領選の敗者クリントン氏も、ロシアの選挙介入疑惑について自らは一切発言しないのはアメリカのこうした価値観を踏まえたものです。
また日本に対して歴史修正主義ということがよく聞かれましたが、アメリカにすれば戦争の勝敗が決まった以上、(日本人は嘘で固められた東京裁判は許せないという気持ちですが)それを蒸し返すのは狡いという意味でしょう。
日本政府も蒸し返すのではなく、勝負がつき降伏した以上は潔く敗者に甘んじてきました。
数年前の日韓合意にアメリカを立会人と決めたのは、安倍総理がアメリカのこうした性格・価値観を利用したものと見るべきでしょう。
「権利の乱用は許されない」という当然の限界が、日本では忘れられていろんな分野で権利だけあえて強調されている印象が最近強くなっています。
クレーマーやモンスター保護者も同じで、客である以上は何を言っても食い下がってもいいという乱用形態がこの10数年以上一般化してきました。
「裁判を受ける権利」という名で政治分野で勝負がついた問題の蒸し返し的訴訟をしょっちゅう行っている訴訟マニアっぽい行動形式もこれに似ていますが、これは昨日まで紹介したアメリカ式ルールによればスラップ訴訟にかなり近いことが分かります。
韓国では一旦被害者になるととてつもなく横暴になる傾向があり、弱者ビジネスという言われ方もされていますが、日本でも被害者ビジネス・・古くは同和を名乗りさえすればなんでも通る時代がありました。
今では生活保護受給者などの窓口で「弱者をバカにしている」などと騒げばなんとかなる・・クレーマーやモンスター保護者というのはこの範疇です。
韓国のニュースを見る限り一旦弱者になるとその強引さ驚きますが、権利があることとその限界を弁えない点で、原理が同じです。
訴訟での蒸し返しと言う点では意外に日本左翼系の訴訟好き(ただし個人相手の場合にはスラップ訴訟として日本でも賠償金支払いを命じられることが多くなっていますが政府相手ならば、乱用しても良いというイメージです)と似ていてその共通項は「権利」主張という言葉に陶酔している点でしょうか。
昨日紹介した通り、スラップ訴訟の対象は強者が個人を訴える類型ですが、原発や行政訴訟は弱い個人が損をするものではないですが、(全国一斉原発訴訟などを見ると)大手企業だって訴訟対応コストは大変なものですし、あるいは政府もむやみに訴訟されると国民の税金で訴訟対応しなければならないのですから、一般国民の立場としてもいい加減にしてくれという声が起きてくるでしょう。
ただし反原発の政治闘争をしているという一般的イメージ理解とは違い、個別具体的危険性・・許可基準に違反していないかの争いとすれば全国各地別々に訴訟するしかないので、嫌がらせ訴訟とはいえません・・念のため
何故政治闘争というイメージが広がっているのかですが、弁護団などが「裁判闘争」と名打つからではないでしょうか?
裁判闘争に触発されて左翼とは逆の立場による昨年から発生しているのが、各地弁護士会宛の大量の懲戒請求・・乱用行為でしょうか?
左翼の各地原発訴訟やいろんな反対のための裁判闘争は?一応大義がありますが、右翼系による大量懲戒申し立ては、主義主張に反するという一種の業務妨害目的性が顕著な印象です。
公的団体である弁護士会としては損害賠償請求までは政治的判断(大阪弁護士会の橋下弁護士に関する最高裁判決で厳しく制限されています)で?出来ませんが、今回対象にされた個人弁護士の一部は、損害賠償請求の訴え提起したと報道されています。
11月24日現在のウイキペデイアの懲戒請求に関する記事からです。

特定の弁護士への大量懲戒請求
「ネット右翼#インターネットのデマ」も参照
東京弁護士会が2016年4月に出した「朝鮮学校への適正な補助金交付を求める会長声明」に賛同したとみなされた複数の弁護士(佐々木亮や嶋崎量など朝鮮学校の訴訟に対し関わっていない弁護士もデマでターゲットにされた[13])に対し、2017年以降約13万件の懲戒請求があったことが明らかになっている。
・・・この大量懲戒請求に対して神奈川弁護士会所属の神原元ら二人の弁護士[20][21][22]、東京弁護士会の弁護士一人が訴訟を起こした[23][24]。
大量懲戒請求がメディアに取り上げられた発端の佐々木亮、北周人は900人を超える請求者に対して訴訟を起こすことを決めた。
東京弁護士会に所属する在日コリアンの弁護士が起こした裁判では原告側の主張が認められ人種差別的な理由による懲戒は違法であるとの判決が出され、33万円の慰謝料の支払いが命じられた。またこの裁判には被告となった男性は欠席、答弁書を提出しなかった[25]。
懲戒請求を行った者の年齢は1番若くて43歳であり40代後半から50代後半が多く60代、70代もいるという[26]。NHKの調査では懲戒請求した人物の平均年齢は55歳で6割が男性という。

高齢者が、ネット弱者=左翼系マスメデイアの支持者と言われていたのですが、上記NHKの調査によれば実態は違っているようで驚きました。
ただし、弁護士会が懲戒請求者のプライバシー(氏名等)を開示するとは思えない上に、誰かがリークしたとしても懲戒請求には生年月日記載不要(例えば千葉県の弁護士会会規を見ると生年月日を記載するとあるのですが、請求書に生年月日を書いてくる人がいないのですが、うるさいことを言わずにそのま受理していることが多い)ですから、リークする前提資料がないのでNHKがどうやって13万件に及ぶ請求者の年齢調査できたのか、根拠・客観性不明です。
NHKが根拠ない記事を発表しているのか、NHKが報道していないのにウイキペデイアの憶測記事かも不明です。

スラップ訴訟の法原理5

スラップ訴訟については、「ネット炎上とスラップ訴訟・言論封じ2」で16年4月26日に書き初めていましたが、そのまネット炎上に戻ったママになっています。
スラップ訴訟に関する本日現在のウイキペデイアの記事を紹介しておきます。
ウイキペデイア

スラップは、社会的地位や経済的な余裕のある比較強者が原告となり、比較弱者を被告とすることで恫喝的に訴訟を提起することが多い。
実際に比較強者が訴訟を提起した場合、被告側たる比較弱者には、法廷準備費用や時間的拘束[2]などの負担を強いられるため、訴えられた本人だけでなく、訴えられることを恐れ、被告以外の市民・被害者やメディアの言論や行動等の委縮、さらには被害者の泣き寝入りを誘発すること、証人の確保さえ難しくなる。したがって原告は、仮に敗訴してもスラップの主目的たる嫌がらせを容易に達成できる。

上記はまさに、私が「ネット炎上とスラップ訴訟・言論封じ2」で16年4月26日に具体的な想定例を挙げた通りの内容です。

・・・アメリカ合衆国カリフォルニア州では、「反SLAPP法」という州法に基づき、被告側が原告側の提訴をスラップであると反論して認められれば公訴は棄却され、訴訟費用の負担義務は原告側に課される[3]。
日本では反スラップ法はありませんが、上記ウイキペでイアでは以下の事例が紹介されています。
スラップであると報じられた実例。
日本
幸福の科学事件[5][6][7]
2011年6月、甘利明が週刊ニュース新書に対し取材記者、キャスター、プロデューサーを名誉毀損で提訴した[8]。
オリコン・烏賀陽裁判
2012年、明治大学教授野中郁江の学術論文などに対し、関連投資ファンドの経営陣が5500万円の損害賠償を求めた名誉毀損訴訟[9]。
弁護士澤藤統一郎からブログで批判されたことに対し、DHCと会長吉田嘉明が名誉毀損であるとして、損害賠償を求めて提訴したが、請求を棄却した事例[10]。
2012年、大渕愛子対My News Japan記事削除仮処分申請事件。原告が訴訟を、被告が記事をそれぞれ取り下げたことで和解が成立した[11]。
ユニクロ(ファーストリテイリング)がユニクロの過酷な労働環境を告発した文藝春秋社『ユニクロ帝国の光と影』(横田増生著)に対し、2億2千万円の損害賠償、出版差し止め、発行済み書籍の回収を求めた裁判[12][13]。一審、二審、最高裁全て「真実」「真実相当性がある」としてユニクロの全面敗訴。
読売新聞が押し紙の問題を載せた週刊新潮とジャーナリストに対して行った訴訟[14]。
NHK受信料支払い拒否問題に関連して、日本放送協会に対して裁判を起こすようアドバイスした「NHKから国民を守る党」に対して日本放送協会が起こした訴訟[15

日本では革新系によって、政治で負けたことの蒸し返しのための訴訟提起の頻発・・司法が政治に介入しすぎないかの不満・イメージが増幅されてきました。
しかし、厳密に言えば、国会や市議会等で政治で決めたことの蒸し返しではなく、議会等で決めたルール違反を指摘する・司法はその有無を認定しているに過ぎないのであって左翼系に対する批判が当たりません。
(ネット等では司法・法律家の左傾化などを煽っていますが、非合理な感情的批判をあおっているにすぎないように見えます。)
例えば、原発の運転再開訴訟その他では多くが政治決定に不満な勢力中心に粗探し的に訴訟提起する印象ですので、結果からみると政治決定に司法が介入しているような印象ですが、訴訟テーマは政治で決めた運転基準に違反していないかのチェック訴訟です。
イラク派兵問題では国会で決まったことの蒸し返しではなく、特措法の適用範囲であったかどうか・・戦闘地域であったかどうか・現地実態はどうであったかの事後検証審議のための日誌の開示を国会で問題にしていたにすぎません。
沖縄基地の政府と県との訴訟は、埋め立て許可基準に合致しているかどうかの争いです。
結果だけ見ると、左翼系による訴訟戦術で政策実現妨害を受けているイメージが強いので、不満を持つようになった右翼系がイメージだけ学んで「それならば!」とばかりに追いかけ的訴訟提起することがこの数年多くなっていますが、(NHK訴訟など多くの事件が敗訴になっているようですが、)訴訟に馴染むものとなじまないものがあるというあたり前のことに気をつける必要があります。
日本の左翼系も政府施策に反対するために同じように何でも訴訟する傾向があるように思い込んでいる人が多い(ネットでは不満が溢れていますが・・)のですが、(長崎の諫早水門開門訴訟や、原発運転停止や空港騒音による運行差し止め・・沖縄基地移転などなど政治問題の多くが国会で決めるのではなく?裁判闘争に訴えるのが普通です)ここ数年では、日本民族系も逆に訴訟に訴える戦術を取り始めました。
ところが、アメリカ社会や日本の左翼系は長年の訴訟経験で訴訟戦術に長けているので、訴訟経験のない右翼・民族系がモノマネ的訴訟をすると却って返り討ちにあうリスクが高まります。
粗暴な相手があまり暴力を振るうので、日頃やられっぱなしの柔弱な男が殴り返したら半殺しに遭うようなものです。
相手のやり方で対抗するならば、相応の鍛錬が必要です。
素人が鍛錬しても意味がないので、、やはりアメリカ式の訴訟ルールに日本法律家も習熟していく必要があるでしょう。
17年10月5日「言論の自由(国家民族や集団のため1)」で自由主義・人権保障や金融資本の本家アメリカで、独占禁止法違反や不正競争違反あるいは金融規制など、権利行使の限界に対する規制が厳しくなっていると紹介しましたが、なんとなく日本では訴訟天国と言われているアメリカでは、逆にそれだからこそ訴訟の分野でも「乱用は許さない」という厳しい運用・・スラップ訴訟法理が発達していることがわかります。
3権分立の原理もどちらかというと形式的理解ではなく、「政治分野に司法は介入しない」という厳格な運用を垣間見ることができます。
トランプ氏の移民規制は、大統領令であって議会意思を反映したものではないから単純な司法審査に馴染んでしまった可能性があります。

スラップ訴訟と法原理4(議会と司法審査)

この機会に議会と司法の審査の関係を日本の判例の流れで見ておきます。
昨日苫米地事件を見ましたが、その前の米内山事件とその後・・現在の到達点を見ておくには、以下の論文が簡潔です。
https://www.westlawjapan.com/pdf/column_law/20180524.pdf

《W L J判例コラム臨時号》第133号
地方議会の内部規律と部分社会の法理~平成30年4月26日最高裁判決1~
文献番号2018WLJCC009桃山学院大学教授田中祥貴

以下要旨を紹介しますが、昨日書いたように、人権保障的分野の憲法問題を除いて議会の自主性が最大限尊重されるというのが大方の意見(学者の方は私がなんとなく理解していたのと詳細論拠は緻密ですが志向性はほぼ同じ)のように見えます。

1.判例の経緯
本判決で採用された判断枠組は、一般に、部分社会の法理と呼称される。すなわち、自律的な法規範をもつ社会ないし団体内部の紛争に関しては、その内部規律の問題にとどまる限りその自治的措置に任せ、それについては司法審査が及ばないという法理である。当該法理形成の嚆矢は、県議会での議員除名処分の取消しを争った昭和28年米内山事件最高裁決定で展開された田中耕太郎裁判官の少数意見に看取される4。すなわち、多元的社会の内部規律問題については、その社会の特殊的法秩序による自主的決定に委ね、司法権の埒外とする「法秩序の多元性」論である。
その後、かかる見解は、昭和35年村議会懲罰決議等取消請求事件最高裁判決で多数意見を形成する5。ここで最高裁は、「一切の法律上の争訟とはあらゆる法律上の係争という意味ではない」、「その中には事柄の特質上司法裁判権の対象の外におくを相当とするものがあ」り「自律的な法規範をもつ社会ないしは団体に在つては、当該規範の実現を内部規律の問題として自治的措置に任せ」るべきものとして、司法審査の対象を限界付けた。
さらに、昭和52年富山大学単位不認定等違法確認事件最高裁判決6では、昭和35年判決を踏襲しつつ、「一般市民社会の中にあつてこれとは別個に自律的な法規範を有する特殊な部分社会における法律上の係争ごときは、それが一般市民法秩序と直接の関係を有しない内部的な問題にとどまる限り、その自主的、自律的な解釈に委ねるのを適当とし、裁判所の司法審査の対象にはならない」と解し、部分社会の法理を判例理論として確立させた。
2.部分社会からの自由
従来、我が国の司法府が展開してきた当該法理は、重大な課題を抱えている。すなわち、部分社会の法理は、国民の裁判を受ける権利と高い緊張関係に立たざるを得ない。就中、裁判を受ける権利は「基本権を確保するための基本権7」であり、個人の人権保障という文脈において非常に重要な位置付けを有する。そして、裁判所はその権利を担保すべき憲法上の責務を負う。それにも拘わらず、特殊な部分社会内部の係争は司法的救済の外に放逐されるという論理は、最高裁が仮託する「法秩序の多元性」論のみで十分な理論的基礎を形成し得るものではない。
何より、部分社会の法理は、それが射程として内包する範囲及び外延の不明確性という致命的な問題に必然的に逢着する。この点、判例上、かかる境界の指標として「一般市民法秩序」との接点を手がかりに「除名処分」と「出席停止処分」の区別が提示されているが8、例えば、任期満了までの出席停止処分という可能性を想定すれば、判例のカテゴライズに基づいた峻別論は理論構成として十分ではないことは明らかである。
・・・結局、司法審査の可否は、団体自治の憲法的要請と裁判を受ける権利との調整をめぐる利益衡量に拠ることとなろう。
この点、昭和35年判決以来、我が国の司法では、部分社会の法理によって司法審査を回避する傾向が看取され、それは「部分社会の自由」に傾倒した感が否めなかった。しかし近年、かかる傾向をいわば「部分社会からの自由13」という視座から再考し、司法審査の対象の再構成を試みる下級審判例が注目される。
・・・従前の最高裁判例が指標とする「除名」等の身分喪失といった「重大事項」性で
はなく、一般市民法秩序において保障される権利への侵害状況が看取されるとき、一般市民法秩序との直接的関係性を認め、「法律上の争訟」性を肯定するのである。
・・・・「一般市民法秩序との直接的関係性」の内実を敷衍するに際して、「一般市民法秩序において保障されている権利利益を侵害する場合や明白な法令違反がある場合」を「法律上の争訟」に該当するとした高裁判決15等を挙げることができる。

3.本判決の妥当性
本判決は、明らかにかかる下級審判決とは異なるコンテクストを有する。
・・・かかる議員の発言が名誉毀損等の不法行為を構成する場合は別論であるが、そうではない場合に、少なくとも、憲法上の基本的人権に対する具体的侵害状況が看取されるにも拘わらず、地方議会の内部規律を優位させ、Xの請求に対して何らの司法審査すら行わず一蹴した本判決は、妥当性を有するとは言い難い。・・・

30年判決(県知事批判意見の議事録削除に対する司法審査拒否結論)の批判が結論されます。
たまたま私の価値観と同じ方向性のようです。
アメリカの判例法理の詳細を知りませんが、日本の法理で言ってもグレンデール市議会の決議内容の不当性を鳴らして訴訟することの無謀さ・非常識さが分かるでしょう。
アメリカでは、「猫を電子レンジで温めて死んだ」と損害賠償請求するなどなんでも訴訟する社会のように揶揄する報道が多いので日本では呆れている人が多い・・じゃ自分たちも訴訟してみようとするのは無謀です。
メデイアは一定の角度でアメリカ社会を揶揄しているだけで、(逆に「アメリカはすごい」と持ち上げる方向で特別な場合を一般化して報道する事例も多い)実はどこの国でも無茶なことはないのです・・アメリカはきちんとルールに基づいて訴訟していることを知るべきです。
グレンデール市の慰安婦像関連訴訟で完敗したのでアメリカでは韓国の主張が支持されているかのように誤解してがっかりしている人が多いでしょうが、司法審査に乗らないテーマで訴訟する方が間違っていたのです。
裁判するのは自由ですが、アメリカでもやりすぎると逆にスラップ訴訟として賠償金が課せられます。
自由には責任が伴うということでしょうか?

慰安婦像訴訟(スラップ訴訟と法原理3)

カリフォルニア州といえば、グレンデール市の慰安婦像設置→日系人の起こした訴訟がスラップ訴訟として排斥されたことが知られていますが、公園への設置許可と報道されていますから、文字通り市の権限・・「所有者としての機能」・私有財産管理権限行使という位置付けでしょうか?
この機会にグレンデール市の慰安婦像設置可否の議論を見直してみると、本日現在のウイキペデイアの記事によると人口は約20万人弱ですから、日本的レベルの自治権があるとすれば夕方ちょっと集まって議論するボランテイアで行える政治規模を超えています。
ウイキペデイアによれば以下の通りです。

政治
グレンデールの市議会は5名の議員からなり、5名全員が得票数順に選出される。議員の任期は4年である。市長は5名の議員が持ち回りで務める[4]。なお、グレンデールはシティー・マネージャー制を採っているため、市の行政を執行し、責任を負うのは市議会から選出されたシティー・マネージャーであり、市長は市議員としての通常の業務のほかには、市議会の議長や各種の儀礼的な職務を遂行するにとどまる。

上記シティマネージャー制については、17年10月13日に紹介した、「弱市長制」のことのように見えます。
慰安婦像設置の決定をした同市の市議会・市民集会がどのように運営されたか、どういう経緯で決まったか私には明らかではありませんが、「所有者としての機能」程度の権限・・「公園敷地利用許可」・・のテーマがあった場合、私の自宅付近にある町内会管理の小公園にブランコを設置するかどうかの議論みたいなものでしょうから、町内会の会議にいちいち近所の人は集まりません。
サイレントマジョリティー・多くの市民にとって、慰安婦像設置の可否かどうかすら気がつかないし、あまり関心のない人は公園内に銅像を一つ置くかどうかについて設置反対論を言うために出かけないことが想像できます・・。
日本の場合、自分が出かけて行って口角泡を飛ばして自己主張しなくとも、任せた役員が無茶なことをするわけがないという信頼があるので行かないのですが、アメリカの場合は違うでしょうが・・。
慰安婦像設置許可取り消し?訴訟では、市議会議論の実際・けんけんがくがくの議論をしたか、しないかの証拠調べに踏み込んだ判決かどうかしりませんが、結果が早すぎたのでそのような実態審理にまで入らなかった印象です。
そもそも司法権は、議会審議経過に立ち入らないのが我が国でも原則です。
法律の勉強で習った事例をウィキペデアで調べてみると以下のとおりです。

苫米地事件(とまべちじけん)とは、衆議院の解散により衆議院議員の職を失った原告・苫米地義三(とまべちぎぞう)が、任期満了までの職の確認と歳費の支給を訴えて争った事件[最高裁判所昭和35年6月8日大法廷判決は、衆議院解散に高度の政治性を認め、違法の審査は裁判所の権限の外にあるとする「統治行為論」(多数意見はこの用語を用いていない)を採用して違法性の判断を回避、上告を棄却した。」

町内会の議題でも、自宅付近のポストやバス停の移動は気になりますが、出来上がっている公園敷地内にどのような銅像が立つかについてあまり関心がないのが普通でしょう。
近くの公園に銅像を立てる予定について、賛否を聞きたいというテーマで開催通知が回ってくれば、多くの人はいくら金がかるのかの関心があっても、(建造費を含めて寄付となれば)どういう種類の銅像を建てるかについてまでの関心はないように思われます・・やりかけの仕事・職場を早引きしてまで急いで帰って参加しかないでしょう。
仮に慰安婦像設置の可否と書いてあっても、ほとんどの市民は関心がないので党派的設置運動をしてきたループの動員力次第になります。
日系人がボヤーっとしていて一旦決まってから、驚いて反対運動しても後の祭りです。
それが市長の裁量で行ったのであれば行政訴訟の対象として実態審理に入れたのでしょうが、議会の論争へて(実際に反対論があったかまで知りませんが、とも角民主的決議があって決着がついたということで)設置を決めたということであれば、訴訟になじまない・スラップ訴訟認定という不名誉な形で入り口で負けてしまったようです。
グレンデール市の裁判結果を聞くと日本人としては残念ですが、敗因を読むとムベなるかなという気がしない訳ではありません。
https://synodos.jp/international/13150によると以下のようです。

「カリフォルニア州の反SLAPP法が適用されるには、二つの段階がある。まず第一に、SLAPP認定を求める被告の側が、「公の問題について政治参加や言論の自由を行使した結果」訴えられたのだ、と証明する必要がある。」
実際の裁判において、「この問題について政治参加や言論の自由を行使した結果」訴えられたと証明するには、訴えの対象となった行為――この場合はグレンデール市による「慰安婦」像の設置――が次の四つの要素の最低一つに当てはまることを示す必要がある。
1)立法・行政・司法もしくはその他の法に基づく公式な会合における、口頭もしくは文書による意見表明。
2)立法・行政・司法もしくはその他の法に基づく公式な会合で議論されている件についての、口頭もしくは文書による意見表明。
3)公共の問題について、公共の空間で行われた、口頭もしくは文書による意見表明。
4)その他、公共
被告グレンデール市は、像の設置は議会の内外で議論され、市議会という公式な立法の場で議決されたことであるから1から3の要件を満たし、また、像の設置そのものは口頭や文書ではないものの市による言論の自由に基づく行為であるから4の要件にも該当する、と主張した。
裁判では、これが採用されたということです。」

アメリカで訴訟するには、当然アメリカの判例動向や法令を知っている弁護士に頼んだはずですが、実質審理にさえ入れないで完敗したのは、アメリカの裁判に対する不信感ではなく「訴訟提起する方の訴訟準備が拙劣すぎないか?」という意味で不思議です。
苫米地事件の判例を上記紹介した通り、若干の違いがあっても日本でも基本的には同様で、議会決議内容を司法は憲法違反以外にチェックできないので、訴訟テーマは議決無効と認定されるほどの手続き違背があったかどうか「だけ」ですから・・。
日本では革新系によって、政治で負けたことの蒸し返しのための訴訟提起の頻発・・司法が政治に介入しすぎないかの不満・イメージが増幅されてきました。
しかし、厳密に言えば、国会や市議会等で政治で決めたことの蒸し返しではなく、議会等で決めたルール違反を指摘する・司法はその有無を認定しているに過ぎないのであって左翼系に対する批判が当たりません。
(ネット等では司法・法律家の左傾化などを煽っていますが、非合理な感情的批判をあおっているにすぎないように見えます。)
例えば、原発の運転再開訴訟その他では多くが政治決定に不満な勢力中心に粗探し的に訴訟提起する印象ですので、結果からみると政治決定に司法が介入しているような印象ですが、訴訟テーマは政治で決めた運転基準に違反していないかのチェック訴訟です。
イラク派兵問題では国会で決まったことの蒸し返しではなく、特措法の適用範囲であったかどうか・・戦闘地域であったかどうか・現地実態はどうであったかの審議のための日誌の開示を国会で問題にしていたにすぎません。
沖縄基地の政府と県との訴訟は、埋め立て許可基準に合致しているかどうかの争いです。

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