自民族言語表現の重要性2

日本人は自分や家族だけではなく、民族のために古代から働くのですが、中国などは違います。
この辺の事情については、最近では、民族意識より宗族意識優先の中国との比較でMay 24, 2017「民族文化の有無3(宗族血縁組織)」でも書きました。
漢詩・詞文が入ってくれば、日本語にあった和歌や連歌〜俳諧が発達する社会です。
中世禅宗も栄西・道元のような代表選手が少し行けばすぐに禅の精髄を取り入れて日本精神にしてしまうし、(中国では見る影もなく衰退しています・最近立派になっているのは日本人が故地を・・尊ぶ気持ちが強くて寄付・修復するからです)アメリカ発のジャズも実力者による日本公演回数が増えてくるなど日本が重要拠点になりつつあるようです。
イギリスで盛んであった競馬でさえも、デイープインパトの出現によって市場規模が格段に大きくなっています。
多種多様な分野で日本は古代から異民族文化(鑑真和上に限らず多くの渡来人や帰化人)をそのまま日本文化に溶けこませた上で日本独自文化に創り上げてきた特徴があります。
これが可能であったのは、日本に外来文化を受け入れるに足る固有の優れた文化がすでにあったからです。
往年の世界的スターが落ちぶれても、日本ではずっと地方公演を続けられる素地があるのと似ています。
鑑真和上に限らず令名の高い人材が生命を賭してまで日本に向かったのは、それだけ命がけでやって来る価値のある社会であったからです。
漢字の導入であれ、律令制であれ、仏教哲理であれ仏教美術であれ、丸ごと輸入して満足するのではなく、日本民族価値観に合うように変容して柔軟に取り入れる能力・・種子島の鉄砲であれ、幕末の西欧文化であれ、明治維新以降であれ、いろんな文物が入って来るとこれをヒントとして受け入れればすぐに自家製でやる能力を持っていたことがわかります。
幕末洋画の手法が入っても、わが国では遠近法その他の技法は取り入れますが日本伝統の日本画を捨てません。
7月16日に千葉市美術館で開催中の椿貞雄展を見てきましたが、彼と師の岸田劉生は晩年日本画の描く対象をなんとか洋画に取り入れられないかと模索?を試みているうちに師の劉生が先に亡くなり(劉生は日本画の岩絵具などの利用を試みていた?)、椿貞夫氏は最後まで油絵の具での日本的表現努力をしてきたが、うまくいかないまま終わった印象を受けました。
私の好みで言えば、椿氏が、墨絵等で(日本画の材料で)書いた子供らの絵や寝転んでいる・日常の絵がとても良かったです。
岸田劉生〜椿貞雄氏の苦労を見たので初めて知ったことですが、油絵は教会芸術から始まった結果かもしれませんが、額縁に入ったかしこまったポーズしか馴染まないのに対して日本画では日常描写では日本画の手法が優れている印象を受けました。
花鳥風月に始まり昔から動物や庶民の日常(動作)を描いてきた歴史があるからでしょうが、子供らが輪になって遊ぶ姿(子供の歌声が聞こえてくるような感じがしました)やスイカなどにかぶりついたり大人が昼寝する姿や寒山拾得図など日本画手法の良さが堪能できました。
このように明治以降の西洋の芸術を取り入れに際しても、洋画家でさえもいかにして日本の風土・文化意識に溶けこませるかに苦心してきたことが分かります。
李氏朝鮮では、宗主国の政治体制や儒学そのまま丸ごとの直輸入・・丸暗記能力でそれをしない日本を劣等生扱いしていたのは、自民族固有文化のない弱さの裏返しであることに気がつかないレベルの表明です。
民族意識の骨格である宗教でさえキリスト教国が進んでいるとなれば簡単に変えていく社会とは、民族独自の文化がない社会と同義でしょう。
「馬鹿の一つ覚えのよう丸暗記しか知らない・・」社会では、ヒントだけあれば時間をかけて独自文化に取りれて融合して行く能力のある社会の存在を理解できなかったと思われます。
日清〜日露戦争で日本が勝つと日本と一緒になりたがり、日本が敗戦すると今度は欧米価値観至上主義でアメリカ文化が良いとなると、これに合わせてスグに大量のキリスト教徒が生まれる社会・・乱暴(社会実態無視で)にアメリカ式に法制度を変えていく社会です。
民族文化の基本である文字でさえ、戦後すぐに漢字を廃止しハングル文字だけにしてしまいましたが、10年ほど前には国家の基本枠組みである?戸籍制度も廃止しました。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E3%81%AB%E3%81%8A%E3%81%91%E3%82%8B%E6%BC%A2%E5%AD%97によると以下の通りです。
「1948年施行の「ハングル専用に関する法律」(略称: ハングル専用法)により、漢字廃止に法的根拠が付与される。「大韓民国の公文書はハングルで書く。ただし、当面の間、漢字をかっこに入れて使用することができる」が法律の全文だ・・・・
李承晩の時代には、小学校段階から漢字教育が行われたが、朴正煕は漢字廃止に傾斜を強め、1970年には漢字廃止宣言を発表、普通教育での漢字教育を全廃した。しかし言論界を中心に全廃への反対が強く、1972年には漢字廃止宣言を撤回し、漢文教育用基礎漢字(約1800字)[5]を定め、中学校及び高等学校の「漢文」の教育の一環として漢字教育を復活させた。が、あくまで選択科目であり、受験にもほとんど関係がなく、実社会でもほとんど使用されない漢字は、学生らの学習動機を呼び起こさなかった。また小学校での漢字教育は禁止され、児童に個人的に漢字を教えた小学校教員は、国策に協力しない者として懲戒免職などの重い処分を受けた。
1980年代半ばから、韓国の新聞・雑誌も、次第に漢字の使用頻度を落とし始めた。漢字教育をほとんど受けていないハングル世代が多数を占め、漢字を使用した出版物が売れなくなったためである。」
戸籍廃止だけではなく刑事制度も日本のように国情に応じた微温的改革ではなくアメリカ流にどんどん保釈する仕組みになっていることを2011-4-6「住民登録制度6(公示から管理へ)」で紹介したことがあります。
自国独自文化がないのでそれに対しするこだわりもないし、その時々の強い国の文化を丸ごと取り入れれば効率が良いという安易な発想・・一般に事大主義」と言われる文化背景はここにあります。
シンガポールなど多くの国では、近代文化を自国語に消化できないままで英語やフランス語を理解できるエリートしか理解できないまま独立を迎えました。
植民地時代の元エリート層がそのまま支配層になっている関係で、今でも英語を操れない限り言語能力がないと思い込んでいるから、日本人の殆どが英語を話せないのを知って、複雑思考のできない日本人か?と誤解する人がいる・と10年ほど前にどこかで読んだことがります。
「そう言う国がなぜ先進国になっているか分からない」と言う疑問だったとすれば、もう一息で元々の文化の有無に気がつく寸前まで来た・一歩進んだ意見になるかも知れませんが・・・・。
このように自民族固有の文化を知らないママ生きてきた民族にとっては、外来先端国の文化理解度が民族文化度を測る基準です。
この辺では漢文化を丸ごと暗記している自分の方が日本民族よりも偉いと5〜6百年間・・日露戦争の頃まで誤解してきた朝鮮人はもっと悲劇的です。

自民族言語表現の重要性1

楽団やプロスポーツでも選手の実力・層の厚さは重要ですが、軍師や監督の腕が悪いと負けるのと同じで・・日産の例を見ればあのままだったらイマでは潰れていたかも知れないし、シャープの例も同じです・・(もしかすると東芝も同じかな?)トップ層のレベルが低いと次がなくなる時代ではないかと思っています。 
アメリカが絶えざる人材流入が途絶えるようになると、発展が途絶える点では、唐滅亡以降西域から人材が流入しなくなってからパッタリと発展しなくなった中国歴史の運命を辿るのではないでしょうか。
我が国の場合、過去2000年間で見れば以下の通り、トップクラスの招聘を除けば中間層人材輸入の必要性がなかったのですが、今後必要とするAI系人材になると長年日本が適応してこられた経験で今後も大量の人材輸入しないでやって行けるかは不明です。
言わば、AI分野で国際的に通用するトップクラスの層が日本にも少数いるとした場合、これを支える二番手の高度人材層をどのくらい厚く養成できるかの見通し次第です。
私自身その方向性に全く鈍いことから、(自分の能力を基準にすれば)直感的にインドや中国系に層の厚さで押されそうな心配をしていますが・・杞憂であれば・・と祈るばかりです。
外来文明導入に関する過去2000年の成功体験が今後の展開にも役に立つかどうかは別として、日本の過去の歴史では以下の通りうまくやってきました。
明治維新で御雇い外国人が再任を期待していたのに任期が来るとみんな「結構です」と断られたのに驚いた逸話がありますが・・日本人はちょっと聞いたり技術の基礎を教えられれば,「ヒント」だけで,すぐに自家薬籠中の物にする素地があったからです。
種子島で火縄銃を売ったオランダ人がこれは高く売れると思って、次に商品用に一杯持って来たときには,日本ではその間にもっと性能の良いものが国産化されていたので商売し損ねたことが知られています。
もっと古代にさかのぼれば遣唐使を繰り返す必要がなかった・・仏教精神や隋唐の文化の精髄を誰かが持ち帰ってこれを周辺に広めるとみんなが思想原理を自己のものにする能力があったことによります。
だいぶ前に書いたと思いますが、このように何でも自民族の技術に変えていくようになったのには、民族レベルが古代から高いことがあります。
その最たるものが世界に例を見ない言語変換技術の発明でしょう。
古代から中世までの間、日本列島の文化吸収の唯一対象であった漢文化を咀嚼するのに漢字そのままを日本語読みする技術確立(ほぼ全ての漢字には訓読みがあります)の他に文法の違いまで克服し「日本語と全く文法の違う漢字文化をそのまま日本語読みする工夫」が成功していたことです。
いわゆる漢文の読み下し文・レ点等を利用した技法です。
このお陰で中国へ一人一人が留学しなくとも、留学僧がどっさりと文献を持って帰れば一定の教養のある国民みんながそれを読めた・・間に合ったことになっていたのです。
当時の留学僧の主要な仕事は如何に多量の文献・文物を入手して持ち帰るかが大きな仕事目標であったと言われます。
だからこそ最澄がわずかの滞在で帰国して天台宗を開けたのですが、空海のように本格的修行をしていないので、空海帰国後に密教の教えを請うしかなかった面でもあります。
http://www.kosaiji.org/hokke/tendai/saicho.htmによると以下の通りです。
最澄は弟子の義真(781-833)(後に初代天台座主)を通訳に連れ、空海とおなじ延暦23年(804)7月、遣唐副使の第二船に乗って出発した。
9月26日 約160km歩いて台州の臨海に到着。天台山に直行せずに大回りをしたのは、台州の滞在許可(ビザ)が必要だったからである。
11月5日 天台山巡礼を終えて臨海の龍興寺にもどる。ここで受学と日本に持ち帰る仏典書写に専念することになる。
最澄は8ヶ月の入唐期間のうち6ヶ月をこの台州に留まり、そのほとんどを龍興寺で過ごす。
2月20日には103部253巻(一説には230部460巻)もの写経を終えた。還学生(短期留学)の最澄にとって帰国船に乗るまでの期間は限られていた。それにも関わらずこれだけの成果を出した。これには陸淳が20人の写経生の動員に協力し、道邃和尚、行満和尚も資料の厳選と収集や僧侶を動員など好意的な協力を惜しまなかったのであろう。」
上記の通り天台山にいたのは1ヶ月間あまりだけですから、修行らしい修行をしていないでしょう。
空海の方は周知の通り、恵果和尚について修行して最高位・阿闍梨まで上り詰めてからの帰国でした。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A9%BA%E6%B5%B7
からの引用です
永貞元年(延暦24年、805年)2月、西明寺に入り滞在し、空海の長安での住居となった。
長安で空海が師事したのは、まず醴泉寺の印度僧般若三蔵。密教を学ぶために必須の梵語に磨きをかけたものと考えられている。空海はこの般若三蔵から梵語の経本や新訳経典を与えられている。
5月になると空海は、密教の第七祖である唐長安青龍寺の恵果和尚を訪ね、以降約半年にわたって師事することになる。恵果は空海が過酷な修行をすでに十分積んでいたことを初対面の際見抜いて、即座に密教の奥義伝授を開始し[9]、空海は6月13日に大悲胎蔵の学法灌頂、7月に金剛界の灌頂を受ける。ちなみに胎蔵界・金剛界のいずれの灌頂においても彼の投じた花は敷き曼荼羅の大日如来の上へ落ち、両部(両界)の大日如来と結縁した、と伝えられている。
8月10日には伝法阿闍梨位の灌頂を受け、「この世の一切を遍く照らす最上の者」(=大日如来)を意味する遍照金剛(へんじょうこんごう)の灌頂名を与えられた。この名は後世、空海を尊崇するご宝号として唱えられるようになる。このとき空海は、青龍寺や不空三蔵ゆかりの大興善寺から500人にものぼる人々を招いて食事の接待をし、感謝の気持ちを表している。
・・・大同元年(806年)10月、空海は無事、博多津に帰着。呉服町に東長寺を開基し、大宰府に滞在する。日本では、この年の3月に桓武天皇が崩御し、平城天皇が即位していた。
空海は、10月22日付で朝廷に『請来目録』を提出。唐から空海が持ち帰ったものは『請来目録』によれば、多数の経典類(新訳の経論など216部461巻)、両部大曼荼羅、祖師図、密教法具、阿闍梨付属物など膨大なものである。当然、この目録に載っていない私的なものも別に数多くあったと考えられている。「未だ学ばざるを学び、〜聞かざるを聞く」(『請来目録』)、空海が請来したのは密教を含めた最新の文化体系であった。」
・・・弘仁3年(812年)11月15日、高雄山寺にて金剛界結縁灌頂を開壇した。入壇者には、最澄も含まれていた。さらに12月14日には胎蔵灌頂を開壇。入壇者は最澄やその弟子円澄、光定、泰範のほか190名にのぼった。」
明治維新当時も欧米留学者たちが、自己一人で情報一人占めすることなく欧米の社会事情や技術情報を日本語に翻訳して流布させたこと・・これをすぐに自前のものにしてしまえる層が暑かったことが、爆発的文明開花に成功できた原因です。

TPP18(言語共通化1)

日本に本社機能が集中するようになれば、本社に用のある外国人が多く来て住み着くことがあるでしょうし、日本語修得者も増えます。
東京が彼を吸収することによってコスモポリタン化しますが、その場合は、日本文化を核にしたコスモポリタン化であって民族の個性を失うことはありません。
(後記のように社内公用語を英語にして行っても、本社が日本にあって日本語をベースにして公用語だけ英語にするのと本社がアメリカにあって英語が公用語になるのとでは基礎が違ってきます。)
アメリカに本社機能が移って行くと固有の言語(日本語は今の東北方言みたいな扱いになって行くでしょう)からして失うようにならざるを得ないでしょうから、民族固有の文化は大幅に毀損されます。
固有文化維持の視点から言えば、固有言語を維持出来るか否かはかなり重要ですが、この辺はTPP加入の有無にかかわらず、市場一体化が進む以上は、国際共通言語化して行くしかない趨勢自体を否定出来ません。
会計基準や金融取引・税制基準が国際共通化せざるを得ないのと同じ問題です。
EUのように陸続きの国では、国境を通過する都度交通法規が違ったり貨幣が違うのでは不便ですから、いろんな分野で共通化したくなる気持ちが分ります。
日本企業が国内だけで完結出来るならば良いですが、製造業に限らずコンビニなどサービス業を含めて殆どの大手は海外進出するしかなくなっています。
多くの外国人を現地雇用をして行くしかない以上は、本社が日本にあっても社内公用語を世界的に共通化しつつある英語にして行かないと意思疎通や効率化の面で支障が生じてきます。
個々人も雇用の流動化が進み、転職のために別の国際企業への再就職するには、最低英語くらいは話せないと国際展開している大手企業への転職がおぼつかなくなりますので、英語会話能力・英語文献・データを素早く読み込む能力を身につける必要性が高まるでしょう。
言語共通化問題は、TPP参加とは関係のない現象であって、あらがい切れない流れと言うべきです。
日本列島が明治以降に統一国家になって次第に各地方言が廃れて行ったのと同じ流れですが、各地の方言の場合文法的に根っこは同じでしたし元になる気候風土も基本は同じでした。
日本語を英語に切り替えて行くと基礎になる気候風土も違うし、文法からしてまるで違う・・質的に違う点が固有文化・思考形式にどのような影響を及ぼすのかが心配です。
会社や役所では洋服・・自宅に帰ると着物に着替える習慣が明治以降長年続きましたが、高度成長期以降昭和50年代までに次第に廃れました。
(この結果紬などを着る人が減ってしまったでしょう)
会社が洋風のビルでも自宅では座敷生活だったのですが、自宅も洋風・・椅子テーブル生活に切り替わる時期でもありました。
昭和50年代中頃以降、宴会もどちらかと言うと座敷が減って立食形式のパーテイに変わって行った時期に合うように思います。
私が弁護士になった頃に、ボス弁護士に連れられて行ったのは和風料亭で、呼ばれた芸者さんの三味線など合わせて小唄・甚句などを楽しむ・今から考えれば江戸時代的スタイルが残っている時期でした。
平行して所謂キャバレーやクラブに連れられて行くこともありましたが、まだ和風の楽しみ方が残っている和洋混交時代が、昭和40年代から50年代半ばころの姿でした。
話題が少し変わりますが、TPP参加国の内シンガポールは、ほぼ純粋な商業都市国家ですから、自国内の僅かな製造業保護よりはアメリカ市場が国内同様になれば、まさに10km四方の国が500km四方の国と合併するようなもので、商人としては市場が広がるメリットだけを考えていることになります。
シンガポールは、2013/03/10「TPPと主権4(商人の立場1)」前後で書いた発想によっているのでしょうが、地域統合本社程度の設置が期待出来ても本当の本社はアメリカに持って行かれるリスクがある点は、製造業系企業とそれほどは変わりません。
日本で言えば、東北各地の県庁所在地よりは仙台の方が有利という程度の利点をシンガポールが狙っているのでしょうか。
世界企業の本社が我が国にすでに一杯あるのに、市場一体化によってアメリカに本社や生産機能を持って行かれるリスク・・ひいては独自の文化が縮小衰退して行くリスクのある日本とは、元々志の大きさ・リスク意識が違うことになります。
守るべき固有の言語・文化もないと言えば失礼かな・・ 文化濃度の薄さに比例して身軽ですから、変化の激しい時代には何にでも簡単に変身出来るメリットがあります。

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