朝鮮民族の意識改革(宇垣総督の功績1)

昨日引用の続きです。
「当時の朝鮮農家の最大の問題は労働時間の少ないことであった。田の除草、施肥、更に堆肥作り等に、内地の農民並に働くことを求めたのである。更に冬作として麦、レンゲ草、菜の花等を奨励し、畜産、民芸品製作を奨励した。この方針の民間への徹底を図るため、青年団、婦人会を積極的に組織化したのである。ここで注目すべき事は、これらの団体は反日運動の温床になるとして、それまでは極めて抑制的な対応をしていたものを、積極的に活用を図ろうとしたことである。これらの会合は正規の会議も重要であるが、会議の前後に交わされるインフォーマルな会話、交際が極めて重要であり、反日運動に対する自信がなければ実施できない政策である。」
・・・・この宇垣時代に始まった農業の生産性の向上、工業の急激な発展は、第3表に示すような急激な社会変革を起こしたのである。強盗件数の減少、就学率の向上は生活レベルの向上を窺わせ、、電力消費量の急激な上昇は、今日の韓国発展の原動力と言えよう。」
「この農村振興運動が始まる数年前から自力更正が叫ばれ、京畿道を中心に普通学校(小学校)の卒業者に対し課外指導が行われていた。親から田の一部を借りさせ、先生と共に耕作法の研究が行われていたのである。彼らの熱心な農業への取り組みは周辺農家の2倍以上の収量を得たのである。最初馬鹿にしていた親もその成果に次第に脱帽し、彼らは若き農村指導者に育ちつつあったのである。この卒業生指導は1927年京畿道に始まり、1935年には普通学校の6割で13千人の卒業生を対象として、一人3年から5年間に亘り実施されていた。
 この卒業生指導をより組織的に実施するため、1933年京畿道に農事訓練所を設置したのを皮切りに、1935年以降全道に農村青年訓練所・女子訓練所が設置された。この運用は各道に任せられたため、名称・実施要項等、多少道により異なる。多くは1ヶ月の短期コースと1年間の長期コースに分かれ、長期コースでは寄宿舎に入れ、合宿訓練した。
道によっては卒業生指導を受けた者を入所資格としている所もあり、これにより卒業生指導が止められたわけではない。ここで重視されたのは農業実習と共に精神指導であった。この精神指導について日本への隷属意識を植え付けるものであったと非難されている。しかし私はここで植え付けられた「為せば成る」「協同の精神」と言ったものがセマウル運動の成功に繋がったのではなかろうかと考えている。日本の戦後成長もこの精神なしには考えられない。
 1938年になると内地との交流が始まった。岩手県の青年道場に50人派遣したのを皮切りに、1944年6月までに女子約3百人を含む約3千人が、約1ヶ月内地の訓練所や農家に派遣され、内地の農業技術を実習した。この中には内地の人手不足をカバーする目的のものもあったが、農具の違い等を身を以て体験した事は、速効性はなかったとしても、必ず得るものがあったと確信する。」
第3表 朝鮮産業革命の成果

昭和2年 昭和7年 昭和12年 昭和17年
農業生産高 千万円 86 86 122  
工業生産高 千万円 31 35 87
1人当り国民所得 89.9 78.1 110.7
発電量 百万KWH 2,698 (4,860)
就学率  %  17.4 18.2 30.7 49.6
強盗件数 1771 1261 727 394

農業・工業生産高:1934-1936年平均価格表示
1人当たり国内支出 単位 円 以上溝口他『旧植民地経済統計』
発電量:昭和17年記載数値は昭和16年分  朝鮮総督府殖産局『電気事業要覧』
就学率:正規学校就学率  古川宣子論文より作成
強盗件数: 朝鮮総督府『統計年報』
以上は本体のホームページが無くなっていて、トップに行けないので誰の論文かわかりませんが、きちんとした引用論文の明示もあって確かな数字に基づくようです。
欧米の植民地支配を受けた多くの民族は、朝鮮人に限らず現状を受け入れるだけで古代から生きてきた大まかな傾向があります。
しかも植民地支配に都合がいいので欧米による劣等民族意識の刷り込みによって、さらに前向きの気力を喪失させられていたように見えますが、李氏朝鮮では、同一民族でありながら、ヤンパン支配貫徹のためにヤンパン以外は「人」扱いされない状態で約600年も支配して来たので心底劣等意識に追い込まれ・・やる気を無くしてきたように見えます。
シンガポールのリークアンユー氏が日経の「私の履歴書」に書いていましたが、「自分たち現地人は欧米人にはとても叶わない別のもの」・・犬が人間を見るような見方?・・であったが、日本軍の来てあっという間に英軍を蹴散らしたのを見て受けた衝撃が書かれています。
その意識変革を図り成功体験を持たせ、これがようやく身についてきた結果めざましく農村の収穫が上がり、工業生産にも適応できるような人材が育ち始めた時に敗戦になったことがわかります。
このように、日本統治によって初めて庶民が前向き・・集団で考える経験を与えられた・・李氏朝鮮も欧米植民地支配政策では反抗のタネになるとして厳しく規制していたのですが、日本はこの習慣の大事さを積極的に教えたのです・・。
日本では昔から、小集落ごとの「寄り合い」で何ごとも決めていくのが普通ですから・・歴史以来朝鮮人が初めてこれらの経験をしたので、韓国独立後自立に向けた国づくりにこの経験が大きな効果をもたらしたようです。 
父親のパク大統領は戦前の日本のやり方が良かったことを知っていたので、日韓交渉がなると、農村近代化のためのセマウール運動を展開するに際して宇垣総督の片腕として実務をしていた人を韓国に招いて指導してもらっているようです。
こうした自信を持たせる・・努力すればなんとかなるという教育経験のない点が、アメリカ支配下にあったフィリッピンとの違いのようです。
文字教育に戻しますと、日本統治期間が短かったのでこのような影響を受けた人材の層が少なかったことと、特に文字その他の文化を身につけたとしても多くの庶民にとってはまだメッキ程度だったので漢字教育廃止がきまると、多くがハゲ落ちてしまった印象です。
日本でも・・明治3〜40年代生まれでは、尋常高等小学校卒程度が普通でしたが、それでも日常生活でいろんな漢字が出回っている結果、自然にいろんな漢字を理解して朝日や日経等の日々の新聞を読み、帳簿をつけて社長や課長その他の法律用語・日本で明治以降に作った漢字も理解し、英語もある程度カタカナ表記である限りラジオやテレビが何であるかを理解して生きてきました。
この辺は私の親世代ですので伯父など身辺で実例を見て育ちました。
我々も社会に出てから見聞きして習得したものが圧倒的多数ですから、社会生活上受ける影響力の大きさが分かります。
7月29日経朝刊の文化欄「傍にいた人」の連載シリーズには、小説家の大正生まれの叔父が学校に行けなかったが自学自習で資本論まで読破していた話が出てきます。
日本では学校で教えるか外国の強制があるかどうかではなく、・・宇垣総督が教え込んだ自発的動機がどこまで韓国に根付いているかです。
学校で教えなくとも目の前で漢字が氾濫しているかどうかは重要です。

自民族言語表現・文化の重要性4(近現代用語を日本に頼る中韓1)

ソ連では政府自身が何千万と餓死させながら穀物輸出して共産主義政権が大成功していると虚偽発表していましたし、中国も戦後「大躍進」と称して、実際には数千万〜5000万人の餓死者を出していたことが今になると常識になっています。
個人でも共通ですが、不都合・遅れている状況を隠すときに政府による虚偽発表→鉄のカーテンが起きる現象です。
上の道義が低いと下々もこれに倣います。
日本は古代から外来技術が入ってくるとマルゴト導入ではなく日本の在来概念を組み合わせて、それに適した言語を創設してきました。
蒸気船〜蒸気機関車、自動車、自転車、飛行機や航空母艦などがその1例です。
機械類に限らず新しい考え方・思想的熟語・社会の仕組みに関する用語、法律用語も同じです。
清朝の方が日本より数十年早く西欧に接していたのに、西洋の文物技術(新概念)をまともな漢字熟語に翻訳できていなかった事実から見ると、中国では・・漢字発祥の民族とは言え、多分先進社会用語を自民族で翻訳用語を創作する能力が、日本より低かったのでしょう。
文化格差が有り過ぎる場合、自民族用語に翻訳したくとも自国に高度な対応語がないので無理があります。
この点、日本では江戸時代から堂島には米相場があったし、手形取引も発達していたなどのほか藩札があるので紙幣の流通→両替(大阪は銀で江戸は金兌換ですから必然的に為替取引が発展しますし、遠隔地決済のために為替手形もできていました)もあるなどいろんな社会組織や制度が発達していた・学問的にもエレキテルの研究や数学や蘭学を通じて医学も発達していたなど有利な点があったでしょう。
文化格差があると自国言語に対応言語がない翻訳しきれない結果英外来語をマルごと導入しかなくなる・・西洋諸国でラテン語が約千年間も公用語であり続けた原因がここに有ります。
日本が幕末から明治にかけて欧米の近代用語をすべて自国の漢字熟語に変換して置けたのは、変換能力が高かった他にほぼ同水準の概念が国内にあったことにもよります。
他民族言語を自民族語に変換した歴史経験がない中国や韓国は日本の変換しておいた漢字熟語をそのままの流用で間に合う・自分で努力・創作する必要がなかったので効率が良かったし、英語圏に入らなくともなんとか現在社会がなり立っている状態です。
ただし韓国に限っては戦後すぐに7月20日に紹介したように、日本語のヒラカナに相当するハングル一本化してしまって、漢字教育廃止しているので、漢字をそのまま使えない不都合があると言われています。
専門家だけ漢字を使えば良いというのでは、それ以外の民度はどうなる?という疑問です。
公教育をやめても自発的に学ぶ意欲のある社会であれば別ですが、そうでないとその後漢字文化はジリ貧になって行きます。
7月20日に紹介したように、教育をやめてから一定期間経過すると漢字需要がなくなった結果・・新聞等のメデイアも漢字表記をやめてしまったと言うのですから驚きです。
漢字を読めない層が増えて商売ならない時代がすぐにくるのですから、?せっかく日本が統治期間に民度引き上げのために学校制度を普及させて教育して来のですが、朝鮮人の多くには、荷が勝ち過ぎていたのでしょう。
もちろん前大統領の父親のパク大統領のように、日本の教育制度に乗っかって(日本の士官学校出で日本陸軍での将校でした)頭角を現した人も一定率いますので、何回も書いているようにこのコラムではいつも比率の大きさを書いている・例外がないという意見ではありません。
韓国では漢字を日本文化と誤解して?日本敗戦後の優先課題としてすぐに漢字の公教育を廃止したのですが、その結果、すぐに漢字を読む層が商売にならないほど?消えてしまい、漢字を利用した新聞が成り立たなくなってしまった・・多くの国民が漢字教育に関心を持たなかった事実が重要です。
李氏朝の国家樹立後明や清の冊封体制下にあったとはいえ、独立性が高まった結果すぐに先祖帰りして行った流れが起きていたことと、日本敗戦後日本と交流を断固拒否していた間に7月28〜29日に紹介したように産業部門がどんどん落ち込んで行ったことを合わせて見ると外界からの半強制的学問や技術導入の流れがなくなるとすぐに元々の「地・民度」に戻っていく様子がわかります。
長いヤンパン支配下で、ヤンパンはエリート層として文字教育を受けていたでしょうが、それ以外の庶民が自発的に文字を習い考える気風が育たなかった土壌を見る思いです。
中国律令的価値観では、日本の武士ですら平安時代に描くところの裸足で歩き回る地下(じげ)人であって、このために江戸時代の朝鮮通信使は貴族層ではない武士を相手にするしかないと言って、(実態より形式重視)嫌がっていました。
以上は・・出典を記憶していませんが、小説か随筆か何かで読んだ記憶です。
日本の武士は鎌倉以来支配層として成長し、漢詩文の素養を積んでいましたし(太田道灌が恥ずかしく感じた故事)、江戸時代になると庶民まで子供を寺子屋に通わせたり芸事を習うなど自発的な文化吸収欲求の高い・・最下層で農作業現場系に関与する実務社会でも絶えざる自発的改良工夫の進む社会でした。
他方、朝鮮では、庶民には自発的な文字その他の文化を学びたい欲求が起きなかったのでしょうか?
庶民は文字による文化などを知りたいとは思わないし、社会生活上必要な工夫もしないで古代意識のまま生きて来たから民間から文化や技術が発達しなかったのでしょう。
日本統治になってからの朝鮮では、日本政府が庶民にまで学校に強制的に通わせたり、世界恐慌時に宇垣総督着任後には農村の窮乏を防ぐために学校にいけない子供には教育課程を緩くして学校に時間が空いて放課後に学校にくれば教える仕組みを作り出し農村教育では、「なせばなる」と言う徳目教育で農村で皆が集まって色んな農村の課題をみんなで考えさせたりした結果、とてもできそうもないように見えることでも、みんなで色々工夫して努力していると何とかなることが多い経験を積ませていた結果、徐々に自信を持ち成果を出すようになっていたと言われます。
せっかく身に付き始めた気風が簡単に先祖帰りてしまったのでしょうか?
大恐慌爺以降の記述は以下のとおりです。
http://www5b.biglobe.ne.jp/~korea-su/korea-su/jkorea/nikkan/kankoku-hatten.html
「日本でも東北の農村では、農家のみならず、役場の職員、教員の給料が払えず、遅配、欠配が続いた。農家では自分の作った米を食べず、市場に出すため、ますます米の価格が低下し、売るものがなくなり、娘の身売りが続出した。この年9月に満州事変が勃発した。この原因の一つは、この農村の疲弊対策として、農民の移民先を求めたことである。
朝鮮の農民も自分で作った米は食べることができず、粟か稗しか食べられなかった。日本の農林省は「米の価格低下は、朝鮮米の無制限な移出が原因」と非難し、出荷の自粛を求めた。しかし他に有用な作物がない朝鮮では、農民の生活を維持するためには、高価な米を内地へ移出するしか方法がなかった。陸軍の応援で辛うじて米を自由に日本へ移出する事が認められたのである。
尚、この時期アメリカではフィリピンからの砂糖、椰子油の無制限な輸入に、アメリカ本土の砂糖や食料油の製造者が反発した。更にフィリピン労働者のアメリカ進出に危機感を抱く労働組合が同調し、フィリピンの十年後の独立が決定した。フィリピンの切り捨てである。日本とどちらが民衆の事を考えた施策だったであろうか。
「宇垣総督は着任後直ちに農村を視察し、農村振興運動をスタートさせた。日本における農村自立更正運動より僅かながら先行している。この運動で宇垣が最も主張したのは「心田開発」即ち心の持ち方であった。又宇垣に呼ばれ指導に当たった山崎延吉の指導理念は「奉公の精神、協同の精神、自助の精神」であった。セマウル運動との違いは奉公が勤勉に代わっただけである。」
「この文盲対策として1934年簡易学校の制度を発足させている。学校へ行けなかった青年に読み書き・算盤を教えるものである。生徒は農業の暇なときだけ来て、勉強するというやり方で、普通学校に併設し、普通学校の先生が兼務で教えたのである。」
以下明日に続きます。

外からの民主化と自力発展能力1(民度)

昨日紹介したとおり、何百年も水車作りに挑戦しても実用品を作れない結果を見ると本当のことを言えない社会体制ばかりが原因ではなさそうです。
ものづくりができない・・民度レベルが数千年遅れている可能性もあります。
日本では種子島の鉄砲であれ、いろんな新製品が入ると既存技術の応用ですぐに作ってしまうレベルでしたし、思想や文化も入ってくると、そのものも受容するだけではなく日本式により良いものに仕上げていく社会でした。
朝鮮通信使がこっそりと水車その他日本の優れたものを絵にして持ち帰っても複雑な部品・曲げもの作りの技術を含めて受容レベルに達していないから、いわゆるパチモノ→パチモンづくりが限度であって本物を作れない民度レベルだったことがここに現れています。
日韓併合後日本の技術指導が始まってようやくまともなものを作れるようになったように見えます。
朝鮮から日本への定期的通信来訪は、日本古代の遣隋使・遣唐使の中世版ですが、日本の場合空海が仏像や曼荼羅・土木技術その他を持ち帰れば、すぐに仏像や仏画ため池など実現できたのが我が国です。
朝鮮族では、文字情報で持ち帰ってもそれを実現する総合的な技術が育っていなかったので何回日本に来ても意味がなかったということでしょう。
古代から朝鮮半島は漢の時代から直接支配地であって、漢王朝〜後継王朝の盛衰に伴って波が広がったり引いたり(支配力が落ちると地元に委ねたり)の繰り返しでしたが、元がモンゴルに引き上げた結果中原に生じた権力空白(明王朝が1368年に成立しましたが当初数十年は内部統一にエネルギーが取られます)に乗じて独立したのが李氏朝鮮ですが、1368年に成立していた明王朝に対しては、朝貢して属国の体裁を取りながらも一応独立した王朝になった歴史です。
漢民族直接支配の時代には、帝国の最東端であって文化伝播が遅いもののその時々の中国の文化支配が細々と及んでいた時には、20世紀に入って上記日韓併合によって直接技術指導を受けられるようになったのと同様でその時々の社会進歩にある程度ついて行けていたのでしょう。
李氏朝鮮成立後は朝貢すればいいだけで事実上没交渉(再び直接支配されないように最も警戒すべき相手国です)で直接支配を受けなくなると独自発展能力次第の社会に陥ります。
日本の場合これを利用して平安時代に独自の文化が花開き、鎌倉から〜室町安土桃山江戸時代へと順次の発展が続くのですが、朝鮮の場合そのまま停滞してしまったように見えます。
第4代世宗の時代になって周辺との格差に気づいたものの、宗主国明に行くのは介入を受けるリスクがあることから圧倒的な国力差のない比較的安全な日本から文化(特にひらがなに象徴される独自文化)や技術導入しようとしたように見えます。
第四代と言えば、日本の江戸時代で言えば綱吉が5代ですから(政変や病気等で1代の長さに差があるのですが概ね)ほぼ政権基盤が固まりその政権の独自性がようやく出てくるときです。
アメリカで言えば、大統領就任後100日は批判しないというのも、今では戦乱を統一するのではなく、整った官僚機構を引き継ぐので100日で足りるという考えなのでしょう。
日本ではこの時期に上方に頼っていた文化基盤が江戸に移り元禄文化になるのですが、李氏朝鮮では四代目になっても独自文化を育てられなかったので、焦って?日本への通信使派遣になったものでしょう。
李氏朝鮮に関するウイキペデイアの記事です。
「1392年に高麗の武将李成桂太祖(女真族ともいわれる[1])が恭譲王を廃して、自ら高麗王に即位したことで成立した。李成桂は翌1393年に中国の明から権知朝鮮国事(朝鮮王代理、実質的な朝鮮王の意味)に封ぜられた。朝鮮という国号は李成桂が明の皇帝朱元璋から下賜されたものであり、明から正式に朝鮮国王として冊封を受けたのは太宗の治世の1401年であった。中国の王朝が明から清に変わった17世紀以降も、引き続き李氏朝鮮は中国王朝の冊封体制下にあった。」
昨日紹介した通信使の記事では、1443年(正長元年・世宗25年)であり目的は「通信使の目的には日本の国情視察もあり、1428年(応永35年・世宗10年)の正使だった朴端生は、科学技術に関心の高かった世宗から日本の技術の調査を命じられていた」というのです。
国家樹立後約50年経過しても独自に発展する能力がないので、情報収集の必要性に気付いたものの、持ち帰った情報を活かす基盤がなかったので水車や荷車ひとつまとも作れなかったのです。
世界には独自に文化発展させる能力のある民族とない民族があって、朝鮮や中国人は自力で何もできない民族らしいのです。
明治維新当時の日本から見れば、古代社会がそのままあるような朝鮮の情景を写真等で今見るとに多くの人がその停滞ぶりに驚くでしょう。
米ソ冷戦時で言えば、ソ連や中国ではその間約40年間何の発展もなくて、自由主義諸国とは巨大な格差が生じてしまったことを想起して下さい。
中国が鄧小平によって解放されてみると戦争前の情景のまま(・・車が出始めたばかりの戦前に日本で走っていたようなゴツイ板張りのトラックがそのまま走っているなど)広がっているのに多くの日本人が驚きました・・中ソの偉大な発展を褒めそやしていた左翼文化人の虚偽性が白日の下に晒されたことになります。
中国は西域からの文物流入が止まると発展性がなくなったと何回も書いてきましたが、最近でもこういうことが起きていたのです。
もちろん道義も停滞どころか退化している状態で、日本ではまず泥棒から始まり生活態度が汚すぎるなど・・世界中で虚偽表示その他違法行為やり放題の印象をバラまいたので、・・南シナ海での不法占拠もその1態様です・・これが世界中で中国人の信用をなくしている原因です。
朝鮮通信使に戻りますと周辺国ではどんどん社会が進んで行くのが分かり、焦って日本へ通信使を派遣して日本で発展しているひらがなの実情や社会生活に必要な技術動向を探ることにしたものの、持ち帰った情報だけでは何をどうして良いか分からなかったのです。
自分が何もできない劣等意識を何とかするしかない・・結果的に根拠なく相手をバカにする知恵が付いたように見えます。
原発事故があるともう日本はダメだとむちゃくちゃな言説がそのまま流布する社会・・これを受け入れるレベルの社会です。
文大統領の原発中止に対する朝鮮日報の記事が・全くの虚偽主張に国民が簡単に踊ってしまう現状批判している状況を勝又氏のブログに引用されています。
朝鮮日報自身が、レベルの低い話だと認めて批判しているだけまだマシですが??
ともかく根拠のない扇動に簡単に乗ってしまう民度であることは間違いないでしょう。
こういう国で民主主義ってまだ無理じゃないの!というのが、最近の日本人大方の感想ではないでしょうか?

自民族言語表現の重要性4(ハングル2)

通信使の日本蔑視態度に戻ります。
通信使がはじまった元はと言えば倭寇取り締まり期待と進んだ日本文化・技術導入期待にあったことによります。
ひらがなという民族固有文字普及による文化底上げ・進歩を自国に取り入れる目的(この結果ハングル文字準備機運が盛り上がりました)で始まったものですし、江戸時代の再開は、日本の再攻撃が怖いので「よしみ」を通じておくとも日本再朝鮮攻撃準備を探る目的でした。
本音を知られたくない・・「ペコペコしにきた」と思われたくないから余計尊大にしているしかなかったのでしょうが、日本から見ると尊大なばかりでバカな連中だくらいで見世物的に思われてきたようです。
日本での絵画表現は異国からカッコウの見世物が来たという扱いです。
朝鮮聘礼使淀城着来図の一部『鶏を盗んで町人と喧嘩する朝鮮通信使』

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/a8/Chosenjintsushinshi.png

 

 

この辺は今になると否定的研究をする人は少ないし、朝鮮に関しては本当のことが書けない・・(否定的意見を書くと反ヘイトスピーチ攻撃に引っかかる?自制)があって表面には出てきませんが、日本の実用的文物(水車等の動力利用や荷車その他)が日韓併合のころまで全く導入されていなかった結果から見て明らかでしょう。
韓国では独自の歴史教育がされていて反論が許されない状態で結果的に世界的に通用しない荒唐無稽な歴史教育が行われていると言われますが、そのやり方を日本国内教育に強制させようとする動きが急です。
上記図の解説も韓国寄り学者?によると肉食を知らない日本人が驚いたに過ぎない・・日本の方が遅れていたと言うすり替え解説になっていますが、絵の題名を見れば紛れもなく庭先に放し飼いしている鶏(犯罪の少ない日本社会の基礎レベル)を白昼公然と盗む公式使節のレベルの低さに驚く民衆の驚き・文化レベル差を表現したものというべきでしょう。
https://matome.naver.jp/odai/2136687169645192101による記事引用です。
学術論文ではなく、出典不明ですが一応の情報です。
「朝鮮半島の水車の歴史
1429 世宗11年12月3日 日本の水車が凄いと報告
1430 世宗12年9月27日 水車を造ろうとする
1431 世宗13年5月17日 「中国も日本も水車の利を得ているが我が朝鮮にはそれがない」
1431 世宗13年11月18日 日本と中国の水車の研究の記述が散見
1431 世宗13年12月25日 水車導入を試みる
1451 文宗元年11月18日 20年かけて水車の導入失敗
1488 成宗19年6月24日 水車導入の試み(成否不明)
1502 燕山君8年3月4日 水車導入の試み(成否不明)
1546 明宗元年2月1日 水車導入の試み。琉球(沖縄)と中国から福建式水車輸入
以後百年間水車の記述無し。
一方お隣り日本では、鉄砲伝来後3年目にはすでに量産体制。
1583 一方お隣り日本では、口径80㍉のファルコン砲を量産開始(大友宗麟)
1650 孝宗元年5月15日 水車導入の試み 30年記述無し。
一方お隣りの日本では、鉄砲量産10万丁
1679 肅宗5年3月3日 水車を造らせたと記述。そして70年記述無し
1740 英祖16年4月5日 水車など無くなりました『孝宗大王嘗頒遼瀋水車之制於外方, 今無見存者』
1740 英祖16年11月20日 水車を造らせたと記述(18世紀時点でわざわざ記録に残す程?)
1764 1763-64年の朝鮮通信使「日東壮遊歌」(淀城の水汲み水車の感想)
「その仕組みの巧妙さ見習って作りたいくらいだ」と記述
1781 一方お隣り日本では、水車があまりにも増えすぎて治水工事のジャマなので、水車税を導入(田沼意次)
1795 正祖19年2月18日 水車之制について盛んに出てくる。つまりまだ試作中
1811 純祖11年3月30日 ここの記述で水車なんか必要なのか?と書かれており全く普及していない」
ところで、朝鮮通信使は、室町時代足利義満の時から始まっていて、秀吉の頃にもきています。
この後で紹介するハングル整備に精出した李氏朝鮮第4代世宗は技術面でも上記のとおり関心が高かったようです。
ウイキペデイアでは通信使について以下の通り紹介されています。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E9%80%9A%E4%BF%A1%E4%BD%BF
「朝鮮通信使のそもそもの趣旨は、室町幕府の将軍からの使者と国書に対する高麗王朝の返礼であった。1375年(永和元年)に足利義満によって派遣された日本国王使に対して信(よしみ)を通わす使者として派遣されたのが始まりである。」
室町時代の朝鮮通信使は、倭寇への禁圧対策を日本に要請することが当初の目的だった。
通信使の目的には日本の国情視察も含まれており、この時代のもっとも著名な記録は、1443年(正長元年・世宗25年)の使節で書状官をつとめた申叔舟が編纂した『海東諸国紀』である。この書は朝鮮の日本や琉球に対する外交の基礎情報となった
「文化面では、室町時代には平仮名、片仮名といった固有文字の存在に、江戸時代には京都、大坂、江戸といった都市の絢爛豪華さに驚いた。通信使の目的には日本の国情視察もあり、1428年(応永35年・世宗10年)の正使だった朴端生は、科学技術に関心の高かった世宗から日本の技術の調査を命じられていた。1471年(文明3年・成宗2年)に刊行された申叔舟の『海東諸国紀』によると、調査項目として倭寇の根拠地の特定、倭寇と守護大名、有力国人、土豪との関係、都市の状況、通貨政策など国力の観察、水車などの技術、仏典の扱いなど仏教の状況、交通事情をはじめ15項目があったという。『海東諸国紀』には日本の地図も収められており、江戸時代には日本でも同書の写本が流通した[38]。
以上のとおり通信使の記録による立派な本ができているのに、朝鮮社会でこれを活かせなかったのは何故でしょうか?

上記紹介したとおり、何百年も水車作りに挑戦しても実用品を作れない結果を見ると民度レベルが数千年遅れている可能性もあります。
本当のことを報告できない社会体制・・本当のことをいうと失脚のリスクが高いので気心の知れた仲間内でしか話せない窒息社会は・・英邁な君主・世宗の次の時代あたりから出来上がっていたのでしょう。
今の韓国政治家が表向き大言壮語しながら、裏で国内事情を説明して「何とかしてくれ」と頼む常套手段が昔から行われていたのです。
韓国は通貨危機再来を恐れて、日本に必死になってスワップ協定を頼みながら、国内では「日本が困っているから助けてやった」と説明していたらしいですから、日本は朴政権による慰安婦攻撃以来、表面で日本攻撃しながら裏でこっそり頼んでくるずるいやりかたに応じない姿勢に変わりました。
麻生副総理・財務大臣は再三「韓国が協定して欲しいならば検討する」という態度を明らかにした結果、韓国政府が日本を助けるためにスワップ協定をしてやったと国民に威張っていた手前、今更公式に日本に「お願い」できずに困っている状態です。
世界最大純債権国日本が何の必要があって韓国に相保証を求める必要があるのか・・世界中の人が聞けば呆れるような論理で自己満足して来たのが韓国政府であr民族レベルです。
慰安婦 や徴用工の問題も日韓条約で解決したのに、国民に説明・分配せずに日本から得た資金を政府の懐に入れてしまったことが基本的原因です。
このように韓国・朝鮮人は歴史が始まって以来、実際と天地逆転の政治行動をすることに日本人からすれば明々白々なことでも嘘を言い張ってシラを切り通す・「恥を知らない」民族です。
今年5月就任した文大統領は、日韓慰安婦合意を無効化するとは言えないまでも、「国民感情が・・」と「政府合意と国民は別」という二枚舌を使おうとしているのはその1変形です。
外来文化を受け入れて消化できるほどの独自文化がない民族では、外来文化そのものを丸ごと受け入れて自国文化のように思い込むしかない・・自国独自文化をモテない悲哀というべきでしょう。
韓国では孔子に始まって色々な中国や日本起源のものを何でも自国起源だと言い募る不思議さの基礎がここにあります。
日本が幕末から明治にかけて欧米の近代用語をすべて自国の漢字熟語に変換して置いたので、中国や韓国は(他民族言語を自民族語に変換した歴史経験がないので中韓民族には無理)そのまま利用出来たのでその流用で間に合う・自分で努力・創作する必要がなかったので英語圏に入らなくともなんとか現在社会がなり立っている状態です。
ただし韓国に限っては日本語のヒラカナに相当するハングルしかないので抽象的概念を利用した思考訓練には不向きといわれていますが、ハングルはひらがなのような完全な表音文字に過ぎないといえるか気になります。
韓国人の多くがひらがな思考で生きているって言われますが、ノー(脳)タリンは別として普通の知能の人がひらがなのようなもので表現した幼児が理解する程度の熟語レベルで物事を考える社会・・単純思考で現在の高度社会が成り立つのか?そんなことが可能かな?と言う疑問でしょう。
ハングルとはなにか?ですが、私は現在流通しているハングル自体を知りません。
李氏朝鮮第4代王の世宗の推進した「訓民正音」は(漢字の素養がないものに発音を教える記号)」「民を訓(おし)える正しい音」と言う意味らしいですから、これを元にして表音記号に過ぎないという説が普通に流布されているのかもしれません。
しかし、これは独自文字を持つことに反対する昨日紹介した諮問機関の反対を押し切るための政治的方便だったとも言えます。
そうとすれば、表面の公式意見としてはまさに発音記号でしかないのですが、他方で同音でいくつもの意味を持つので間違いやすいとも言われている実態とも合います。
上記政治的解決のための公式意見は政府を縛るかも知れませんが、言語は生きものですから、実態に合わせて解釈すべきで、額面通りに受けとると間違いのもとです。
漢字とひらかなの中間的なものであった上に、表音文字にしては、ハングルの文字数が多すぎるのはこのような背景がある結果でしょうか?
ちなみにパソコン用の文字数で言えば以下のようです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%AB#.E3.83.8F.E3.83.B3.E3.82.B0.E3.83.AB.E3.81.AB.E9.96.A2.E3.81.99.E3.82.8B.E8.AA.A4.E8.A7.A3
「字母を組み合わせて作られる文字の理論上の組み合わせは11,172文字だが、実際に使用されるのはその半分以下である(1987年に韓国の国家標準となったコンピュータ用の文字セット(KS完成型、KS C 5601-1987)には日常の99%が表記できる範囲として2,350字しか含まれなかった)。」
上記を見るとひらがなの50音やアルファベットの数に比べ多すぎる・・そんなに多くの音の種類が世の中にあるのか不思議ですが、音をあらわすに過ぎないと言いながら実際にはある程度の意味も含んでいる(ひらがな文に漢字が少し入っているイメージ?)のではないでしょうか?
世宗の言った「訓民正音」論は反対派をおもんばかった政治的発言に過ぎないと見るべきでしょう。

自民族言語表現の重要性3(ハングル1)

李氏朝鮮第4代の世宗がハングル文字を整理し普及させようとした事跡をこの後で紹介しますが、そのトキ自前の言語文字を持つのは、漢文化の及ばない化外の地・非文化圏だと言う学者層による反論があったくらいです。
いわば、「自国文字を持たない方が文化度が進んでいる証(あかし」と言うのが朝鮮人知識層の基礎意識だったらしいです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%ABによれば以下の通りです。
「李氏朝鮮第4代王の世宗は、朝鮮固有の文字の創製を積極的に推し進めた。しかし、その事業は当初から事大主義的な保守派の反発を受けた。世宗が設立した諮問機関の集賢殿副提学だった崔萬理は1444年に上疏文で、「昔から中国の諸地は風土が異なっても方言に基づいて文字を作った例はない。ただモンゴル・西夏・女真・日本・チベットのみが文字を持つが、これらはみな夷狄(野蛮人・未開人)のなすことであり、言うに足るものではない」「漢字(中国文字)こそ文字であり、民族固有の文字など有り得ない」と反対した。」
確かに中央文化から離れれば離れるほど、方言など独自性が強くなり固有文化色が強まる傾向があるのは事実ですが、そこには中央の文化をそのまま真似するのがの正しいとする確固とした思想があります。
日本でも、地方の駅ビル内店舗では首都圏と同じチエーン店が出店しているので興ざめすることがありますが、地元にとっては首都圏と同じ店があるのが自慢でしょう。
韓国では真似ばかりでは恥ずかしいという少しのテライもない・いわば開き直り文化が昔から定着していたというべきでしょう。
朝鮮通信使が江戸時代だけでも12回も日本に来ていて、日本の社会の実情を見て自国より進んだ社会生活のあり方を見ても全くこれを報告しないで逆に明や清朝の文化をそのまま受け入れている自分たちに比べて日本が如何に文化の遅れた国か!という報告や吹聴ばかりしていたと言われています。
以下のように室町時代の使節には、立派な報告書があるようですが、侮蔑意識が先にたって社会全般で学ぶ気持ちがなかったから宗主国清朝等にないものは(顔色を伺うのに汲々としていた結果)取り入れられない・・活かせなかったのでしょう。
この辺は明治維新当時、政権交代の連絡今後の徳川政権同様の国交を求める「国書」に「天皇」その他の文言があることを理由に受け取れないとスッタ揉んだの末に江華島沖事件に発展してようやく決着したのも、宗主国清朝に必死に義理立てしていた結果によるものでした。
冊封を受けている朝鮮としては、宗主国以外は全て「王」であるべきあって皇帝を意味する天皇という肩書きそのまま受け取れば宗主国清朝からどのような問責を受けるかも知れないという必死の立場があったからです。
この主張は戦後復活していて、今なお、天皇をあえて「日王」侮蔑的表現に固執しているのは、この歴史に由来します。
ましてその中にこれまで多数回の朝貢を受けてきたが・・今回幕府に変わって天皇の政府に変わったので今後も・・という案内が入っていたのですから、宗主国の目を盗んで2重外交をして来た疑いを受ける…・・一種の謀反の嫌疑ということで、李氏朝鮮としては必死だったのです。
日本としては琉球の朝貢と朝鮮の朝貢を同一視していた歴史があるし、実質的立場から見ても、秀吉による朝鮮征伐の後で(北方民族の圧力もあって)本国を守るために明軍が引き上げてしまった結果、後ろだてのいなくなった日本軍の再来襲を恐れていた朝鮮では、おりから北方から女真族・後の清朝が勢力を広げて来て、日本と挟み撃ちにあうのを極度に恐れていたこともあって、徳川時代に復活した通信使は主に日本の報復的再来襲を防ぐための敵情視察と懐柔にあったので外形上はご機嫌うかがい・内容実質は朝貢に似ていたことがあります。
日本からは1度も行かない仕組も朝貢の形式です。
冊封された王か天皇かの問題では、聖徳太子以来、「日出るところの天子」と自称して来た独立国としての長い歴史があり、これも日本は譲れません。
こんな訳でこじれにこじれて日本では征韓論が吹き出した原因です。
こじれにこじれていた結果、起きたのが江華島事件です。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E8%8F%AF%E5%B3%B6%E4%BA%8B%E4%BB%B6
江華島事件 年月日:1875年9月20日から同22日 場所:江華島(朝鮮西部、黄海)
結果:永宗城砲台等の破壊の後、雲揚号の戦域離脱による戦闘終了。
日朝修好条規の締結。
戦力  日本                    李氏朝鮮
砲艦1隻                      陸上砲台
海兵隊
(士官・海兵・水夫あわせて約22名が上陸)      (約500名)
損害  戦死 1
戦傷 1                      戦死 35
捕虜 16
大小砲36門鹵獲
明治8年はまだ日本軍の近代化が始まったばかりのころでそれほど火砲系(大砲威力)の差がなかったと思われる上に、すぐに上陸作戦に移行→肉薄戦になると火力の近代化はほとんど意味をなさず兵士の気力と数の差が重要になるはずです。
ところが、水夫を含めてたったの22名の日本兵の上陸攻撃に対して500人の圧倒的兵力と自国民応援のある有利な状況下で迎え撃ちながら、自分からあっさりと負けてしまう朝鮮兵の弱さが不思議です。
しかも戦利品を確保するために4〜5名程度の水夫・兵などが翌日再上陸して大砲などを持ち帰ったというのですから、朝鮮兵が何をしていたのか?不思議な民族です。
上記数字を見ても分かるように22名が上陸して16名の捕虜を連れて船に戻っています。
時系列記録は 以下のとおりです。
午前07時43分 端艇二艘で乗り出し、同島に上陸しようとした時、第一砲台から発砲がある。上陸後八分間の激戦の後、東西北3方向から放火しながら急攻したため、城内守備兵は逃げ去り、同砲台を占拠する。
午前08時20分 喇叭にて退軍を命じ、総員東門の前に集合させ、人員を点検する。井上艦長も兵士の慰労のため上陸する。(日本側/負傷2名但し後に1名死亡)(朝鮮側/死者35名、捕虜16名、その他日本側にて、敵の負傷者及び婦人等の身柄を保護し、安全な場所へ誘導して解放する)
午前09時07分 城内に遺棄した大砲等の武器を戦利品として捕獲し、城内を焼き払う。
午後09時59分 戦利品の雲揚への積込みが完了する。
午後10時30分 島に上陸していた全兵士が雲揚に帰る。
【9月23日】 ─ 戦域の離脱 ─
午前11時00分 昨日積み残しの大砲を積み込み、同所を発艦する。
日支事変・中国大陸での陸戦でも日本の何十倍もの兵力の国府軍が開戦すると潰走するばかりで、日本軍は局地戦では最後まで負けてはいませんでした。
攻城戦を制するには城門・城壁を突破するには籠城軍の何倍もの兵力がないとむりと言われていますが・・。
秀吉軍が朝鮮半島ほぼ全土をあっという間に攻略できたことや、戦後北朝鮮軍が38度線を絵超えると抵抗らしい抵抗もなく短期間で半島ほぼ全域を占領できたことなどを見ると、中国や朝鮮では元々戦わずして逃げる民族です。
以下の絵が実際の砦と同じとは限りませんが、一応城塞になっているのに、誰も城門を守らずに逃げてしまったから船を漕ぐ?水夫を含めたたったの22名で攻略できたと思われます。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/f/f5/Soldiers_from_the_Un%27y%C5%8D_attacking_the_Yeongjong_castle_on_a_Korean_island_%28woodblock_print%2C_1876%29.jpg

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