異民族直接支配3(ロシア革命とユダヤ人1)

戦後圧倒的地位に躍り出た米国は、競争力抜群を背景に自由貿易推進政治に邁進します。
ソ連崩壊により、自由主義経済の勝利を確実にした段階で、WTO体制が構築されました。
https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/wto/gaiyo.htmlによれば以下の通りです。

WTO(世界貿易機関:World Trade Organization)は,ウルグアイ・ラウンド交渉の結果1994年に設立が合意され,1995年1月1日に設立された国際機関です。
WTO協定(WTO設立協定及びその附属協定) は,貿易に関連する様々な国際ルールを定めています。WTOはこうした協定の実施・運用を行うと同時に新たな貿易課題への取り組みを行い,多角的貿易体制の中核を担っています。
1 ガットからWTOへ
1930年代の不況後,世界経済のブロック化が進み各国が保護主義的貿易政策を設けたことが,第二次世界大戦の一因となったという反省から,1947年にガット(関税及び貿易に関する一般協定)が作成され,ガット体制が1948年に発足しました(日本は1955年に加入)。貿易における無差別原則(最恵国待遇,内国民待遇)等の基本的ルールを規定したガットは,多角的貿易体制の基礎を築き,貿易の自由化の促進を通じて日本経済を含む世界経済の成長に貢献してきました。
ガットは国際機関ではなく,暫定的な組織として運営されてきました。しかし,1986年に開始されたウルグアイ・ラウンド交渉において,貿易ルールの大幅な拡充が行われるとともに,これらを運営するため,より強固な基盤をもつ国際機関を設立する必要性が強く認識されるようになり,1994年のウルグアイ・ラウンド交渉の妥結の際にWTOの設立が合意されました。

日本の挑戦により米国一強の足元が揺らぎ始めてはいましたが、プラザ合意(1985年)により円高強制で日本押さえ込みに成功し・・・新たに台頭する予定の中国を米国主導の国際秩序に囲い込めば何とかなるという楽観論が占めていた頃に構築した国際体制構築でした。
しかしこのもくろみが外れたことが今の米中対決になった原因です。
国際市場が自由貿易時代に入るとシンガポール・香港規模の都市国家形態・中国の場合、いわゆる特区形態が国際競争には有利であって経済規模・国家を大きくするのはむしろ不利益になってきたように思われます。
バルト3国がソ連支配から解放されると(小規模人口國としての)「小規模の利益」を活用してさっさと先進国(OECD)の仲間入りしています。
ウイキペデイアによると以下の通りです。

バルト三国(バルトさんごく)は、バルト海の東岸、フィンランドの南に南北に並ぶ3つの国を指し、北から順に、エストニア、ラトビア、リトアニアである。3か国ともに、北大西洋条約機構(NATO)・欧州連合(EU)および経済協力開発機構(OECD)の加盟国、通貨もユーロでシェンゲン協定加盟国である。

レーニンは第一次世界大戦で各地の共産主義者が結果的に愛国(民族)主義に変わったのを踏まえて、「民族主義を捨てろ」という基本方針で帝国主義論を書いたと言われています。
革命成功後も世界同時革命や出身民族の利害を捨てる精神教育・・コミンテルンなどに熱心で当初より現在盛んなグローバリストの総本山でした。
たまたまその危険性を感じた欧米が封じ込めに向かったので、後進国経済の集合体に終わったのですが、もしも世界同時革命=ロシア民族が世界征服に成功した場合コメコンの拡大版・精神世界では収容所列島?を想定すればゾッとする世界でした。
10日見た事例では根拠不明ですが・・ロシア革命はレーニンをはじめとするユダヤ系グローバリストが牛耳る政府だった(ユダヤ陰謀)成功例と最近言われるようになっている所以です。
ロシア革命とユダヤ人の関係については、以下に主張されています。

ユダヤ民族とその「不愉快な事実」 — 長谷川 良

ユダヤ民族とその「不愉快な事実」 — 長谷川 良 2014年04月19日 19:50
興味深い点は、ユダヤ民族はロシア革命にユダヤ人が関与したという事実を否定してきたことだ。ノーベル文学賞受賞者のソルジェニーツィンは「200年生きて」という歴史書の中でボリシュヴィキ革命におけるユダヤ人の役割について書いている(200年とは1795年から1995年の間)。
ソルジェニーツィン氏は「ユダヤ人は1917年革命の関与について否定し、『彼らは本当のユダヤ人ではなく、背教者(otshchepentsy)だった』と弁明する。ユダヤ人の主張を認めるなら、同じ論理でボリシュヴィキ革命を主導したロシア人は本当のロシア人ではなかったと主張できるはずだ」と書いている。
イエスを殺害したユダヤ民族は“メシア殺害民族”という追及から逃れるためロシアで革命を支援し、無神論社会を構築していった。そしてロシア革命への関与を追及されると、「彼らは決して本当のユダヤ人ではなく、ユダヤの背教者だった」(ソルジェニーツィン)と突っぱねてきたわけだ。

ロシア革命とその後の運営がユダヤ人主導の革命政府であったことを何故隠す必要があるかの素朴な?疑問が湧きます。

異民族直接支配→植民地支配でない?2

異民族直接支配→植民地支配でない?2

コメコンは域内分業の強制組織でしたが、これは体良くロシア支配の固定化を図るものでした。
ソ連支配圏内の域内分業とは自由主義諸国間で一般的なサプライチェーンの統制版ですが、ソ連解体→コメコン解体=ソ連による権力統制がなくなると、本来の競争力に基づくサプライチェーンと違う弱み・・ロシアから割高品を買わされていた国や地域は、国際相場で他国から買うようになり、国際相場より割安でロシアへの供給を強制されていた国や地域は販路を国際市場に求めるようになります。ソ連崩壊後ロシア共和国の旨みが消えて、ロシア共和国が急激なマイナス成長に落ち込んだ原因(私の個人意見)です。ソ連解体後のマイナス成長の結果についてはあちこちに記事が出ていますが、一例を挙げれば以下の通りです。https://www.jica.go.jp/jica-ri/IFIC_and_JBICI-Studies/jica-ri/publication/archives/jbic/report/review/pdf/28_07.pdf

第1章 はじめに
ロシア連邦:体制移行の現状と今後の課題*1国際審査部第2班能勢 学小田島 健
1991年12月のソ連解体以降、ロシアを取り巻く政治・経済環境は劇的に変化している。崩壊直後、急進的な経済改革が実施された結果、旧ソ連諸国と比べても大きく生産が落ち込み、ハイパーインフレーションや財政収支、経常収支の悪化に見舞われてマクロ経済は大きく不安定化した(図表1、2)。また1998年にはアジア通貨危機の余波を受けた結果、それまでのクローリングペッグ制が維持できなくなり、対ドルのルーブル為替レートが大幅に切り下げられ、短期国債の事実上のデフォルトが生じた(図表3)。この結果、1997年にプラス成長となった経済も再びマイナス成長に陥り、物価・為替の安定性も喪失された。
・・・豊富な天然資源を有する同国は、1999年以降油価上昇等の対外環境改善の恩恵を受けて目覚しい成長を遂げている。実質GDP成長率は4~10%と高成長で推移し、所得水準は崩壊直前の水準まで回復した(図表4)。

上記図表4を見るとソ連解体後中東欧諸国のGDPが一直線に近く上昇しているのに対してロシアの方は、2000年代に原油相場高騰によるまでマイナス成長でした。
ソ連邦解体直後の上記結果を見れば、約100もあるといわれる多数被支配民族を共産主義名下に一体市場化に成功したロシア民族がいかにうまい汁を吸っていたかが分かります。

現在用語でいえばグローバル論を展開した元祖レーニン主導でロシア革命が成功してソ連邦が成立したのですが、ロシア革命〜ソ連成立後のコミンフォルムとかコミンテルン・世界同時革命論等々一貫して今風にいえばグローバル化論の悪しき原型でした。 仮にソ連邦内で自由競争が行われているグローバル化であれば、中東欧やバルト三国の優秀な企業は鉄のカーテンで仕切ったソ連邦内を独占市場として席巻できたのでしょうが、強制割当制下では遅れた方に合わせられる不都合があったでしょう。

大手企業で不採算部門の損失穴埋めに成長部門が再投資資金を食われてしまい外部専業競合企業より不利になるのに似ています。 中国もこの段階に入ってきた・・・沿海部の収益を内陸部に回すしかない・規模の不利益に直面しています。

異民族直接支配→植民地支配でない?

レーニンの帝国主義論では資本主義の最終段階では植民地獲得のために列強間の帝国主義戦争が不可避と言うようですが、中国を見ればわかるように共産主義国家でも市場は必要でしょう。
共産主義だろうが資本主義だろうが、現近代社会では原始的(直接的)物々交換はあり得ないので貨幣利用は不可避です。
ソ連人も洋服を着るし本も読む、暖房用の石炭石油を燃やすしストーブや建物(建築業者)も必要ですし、強大な戦車群を擁していましたが、これらは分業なくして成り立ちません。
分業あるところに商品交換が不可避ですので、生産者は少しでも多く生産したいし媒介者・商人も必須です。
交換あるところに市場(築地市場のような物理的な場でなく為替取引のような実質的意味)が成立するのですから、顧客獲得競争が起きるのは必然です。
その販路が国内だけか国外に販路が広がっているかいないか(国際競争力の有無)によって資本主義の必然と名付けて非難しているだけのことではないでしょうか?
いわば「国外との交易が悪」と言う結果ですが、この論理を応用して中国やロシアは、異民族を直接支配にすれば国内市場であって植民地支配ではないというロジックに頼ってきたようです。
ソ連は内部に百とも言われる異民族を抱える他、第二次世界大戦後東欧諸国を支配下に置くとコメコンという経済共同体を組織して事実上自国市場に取り込みました。
民族数に関して1989年ソ連国勢調査がウキペデイア(本日現在)に出ているので見ると民族構成項目に民族別人口が出てますが、数えて見ると民族名が60まで出ていてそれ以外は「その他」となっています。
言語面の論文がみつかったので以下引用します。
http://src-h.slav.hokudai.ac.jp/publictn/46/shiokawa/shiokawa1.html</b交換あるところに市場(築地市場のような物理的な場でなく為替取引のような実質的意味)が成立するのですから、顧客獲得競争が起きるのは必然です。

ソ連言語政策史再考
Copyright (C) 1999 by Slavic Research Center,Hokkaido University.
本論に先立って、ソ連の民族政策-その一環としての言語政策-への視点について簡単に述べておきたい。
ソ連の民族政策-その一環としての言語政策-への視点について簡単に述べておきたい。
ソ連が「帝国」の一種だという指摘は、かつては政権によって強く否定され、ごく少数の人によって提起される異論という性格を帯びていたが、ペレストロイカおよびソ連解体以降、急速に広まり、むしろ通説と化した。
・・・・ソヴェト政権は諸民族の平等や民族自決の原理を掲げ、特定民族の優越性ではなく全人類的普遍性に基礎をおく理念によって自己を正統化した政権だった。
もちろん、現実の力関係としてはロシア人が圧倒的優位に立っていたが、建前の世界では、他の諸民族とロシア人とは平等とされ、いくつかの民族には名目にもせよ「主権国家」が与えられた。
象徴的なこととして、ソ連の正式名称「ソヴェト社会主義共和国連邦」には「ロシア」を示唆するような地名・民族名が含まれず、理論的には地上のどこにでも当てはまるような呼称となっていた。
そしてまた、ソヴェト政権は、少なくとも公的な建前としては、ロシア以外の民族文化・言語の振興政策や、かつて「後進的」とされていた諸民族に対するアファーマティヴ・アクション(積極的格差是正措置)的な政策をとっていた。
そうした理念と現実とが著しく乖離していたことは、今日、誰もが認めるところだが、そこから、単純にその建前は空疎な虚言だったと片づけるのでは、その特異性が明らかにならない。
・・・ロシア語は正規に「国家語」「公用語」という法的位置づけを与えられることはなかったが、共通語となることは暗黙に当然視されていた。
レーニンは、少数民族に民族自決権を与えれば彼らはそれを行使しないだろうと期待したが(19)、それと同様に、ロシア語の法的押しつけをやめれば自然にロシア語が普及し、共通語になるだろうと想定していたのである
(3) スターリン時代
政策転換の第三の要素として、共通語としてのロシア語の強調がある。
1920年代から30年代前半にかけては、前述のように、ロシア語を特に押しつけなくても自然に広まるだろうとの楽観論が支配的だったが、その楽観論が破れたとき、法的な義務化の発想が登場した。ロシア語教育義務化に関する1938年3月13日の党中央委員会・人民委員会議共同決定がそれを代表する(36

ちょっと前まではソ連の東欧諸国支配の仕組み・コメコンとセットになった軍事組織ワルシャワ条約機構は大人の常識でしたが、ソ連崩壊後30年近く経過して歴史の彼方になったので念のために紹介しておきます。
ソ連が第二次世界大戦後占領した衛星国?支配の名称・・コメコンに関してはウイキペデイアによれば以下の通りです。

第二次世界大戦後に、アメリカ合衆国政府が行ったマーシャル・プランに対抗して設立された。
成立から1954年の第4回総会までの期間は、ソ連を中心とした外国貿易推進機関の性格が強く、加盟東欧諸国からソ連が一方的に利益を搾取していると批判されていたが、1956年の東欧動乱をきっかけに、ソ連は東欧諸国との経済関係の再構築に取り組んだ。
当初加盟国は、ソビエト連邦、ポーランド、チェコスロバキア[1]、ハンガリー、ルーマニア[2]、ブルガリアの6ヶ国。ひと月遅れてアルバニア[3]が加盟した。その後、1950年に東ドイツ、1962年にモンゴル、1972年にキューバ、1978年にベトナムが加盟した。一方1962年にはアルバニアが事実上脱退。最終的に加盟国は10ヶ国になった。
この他に、ユーゴスラビアが準加盟国、フィンランド、イラク、メキシコが非社会主義協力国、その他にもアンゴラ、エチオピア、南イエメン、モザンビーク、ラオスがオブザーバーの地位にあった。また中華人民共和国、北朝鮮もオブザーバーを送っていたが、中華人民共和国は中ソ対立の影響により、北朝鮮はチュチェ(主体)思想に基づいた独自の社会主義路線を取ったことにより、両国ともに62年を最後に会議に参加しなくなった[4]。
1989年の冷戦終結に伴って東欧革命が始まり、1991年6月に解散した。

摂関家支配の構造変化(彰子死亡)

社会変化に関する次の時代の例として如何にも長く続いたかのように見える藤原北家の摂関政治を見ておきます。
例えば、摂関政治が平安時代政治の原型と思われていますが、元はと言えば光明子の設けた紫微中台・・後世の院政機関設置が始まりではないかと私は考えています。
何かの論文で読んだ記憶ですが、この予算は朝廷の予算を超えていた・・全ての人事を含めた政策決定が行われていました。
摂関家・特に北家・道長以降天皇を凌ぐ権力を振るえたのは、藤原詮子、姪の彰子2代が長期間キングメーカーであったことによるようです。
キングメーカーがいなくなって、摂政関白になるのが天皇や上皇の一存になると、結果的に天皇上皇の方が事実上権限が強まります。
道長が伊周との抗争に競り勝って権力獲得できたのは姉詮子の応援があってのことと知られていますが、道長の娘彰子が偶然長寿であったことにより摂関家=北家道長流と言われるほど、藤原北家の独壇場になり、天皇を凌ぐ権力を握れていたにすぎません。
彰子の影響力については、彼女が天皇家の家長として天皇や摂政任命権を長年握ってきたので摂関政治の基礎たる外祖父制度が続いた点については以下の通りです。
藤原 彰子に関するウイキペデイアの記事です。

藤原 彰子(ふじわら の しょうし/あきこ、永延2年(988年) – 承保元年10月3日(1074年10月25日)は、日本の第66代天皇・一条天皇の皇后(中宮)。後一条天皇、後朱雀天皇の生母(国母)、女院。院号は上東門院(じょうとうもんいん)。大女院(おおにょいん)とも称された。
国母へ
長和元年(1012年)2月14日に皇太后、寛仁2年(1018年)正月7日に太皇太后となる。この間、長和5年(1016年)正月29日には敦成親王が即位し(後一条天皇)、道長は念願の摂政に就任した。翌年、道長は摂政・氏長者をともに嫡子・頼通にゆずり、出家して政界から身を引いた。
なお、道長の摂政就任と退任の上表は幼少の天皇ではなく彼女宛に出され、退任後の太政大臣補任も彼女の令旨によって行われている。
これは天皇の一種の分身的存在である摂政(およびその退任者)の人事が、天皇や摂政自身によって行われることは一種の矛盾(自己戴冠の問題)を抱えていたからだと考えられている。道長の出家後、彰子は指導力に乏しい弟たちに代えて一門を統率し、頼通らと協力して摂関政治を支えた
曾孫・白河天皇の代、承保元年(1074年)10月3日、法成寺阿弥陀堂内で、87歳で没した(『扶桑略記』『百練抄』など)。同年2月2日に死去した長弟頼通に遅れること8か月であった。翌年には次弟教通も没し、院政開始への道が敷かれた。

上記の通り彰子が道長死後も国母としてキングメーカーの地位にあって摂関政治の実態を支えていたのですが、彼女が死亡するとすぐに摂関家体制の崩壊が始まります。
北家出身の女御に男子が生まれなくなったこととによって外祖父になれない後三条帝就任が、摂関政治弱体化の始まりでした。
その後院政開始の白河帝となった上に、キングメーカーであった彰子死亡後次期摂関白の指名権者が上皇に移ることになり、摂関家は急坂を転げ落ちるように政治権力から遠ざかり儀式要員になっていきます。
彰子がキングメーカーになった根拠と彰子死亡後、上皇にその権限が自動的に移行した経緯は以下の通りです。
院政に関するウイキペデイアの記事からです。

樋口健太郎は白河法皇の院政の前提として藤原彰子(上東門院)の存在があったと指摘する。彼女は我が子である後一条天皇を太皇太后(後に女院)の立場[5]から支え、以後白河天皇まで5代の天皇にわたり天皇家の家長的な存在であった。
天皇の代理であった摂政は自己の任免を天皇の勅許で行うことができず(それを行うと結果的に摂政自身が自己の進退を判断する矛盾状態になる)、摂関家の全盛期を築いた道長・頼通父子の摂政任免も彼女の令旨などの体裁で実施されていた。
師実は自己の権威づけのために自己の摂関の任免について道長の先例に倣って父院である白河上皇の関与[6]を求め、天皇在位中の協調関係もあって上皇の行幸に公卿を動員し、院御所の造営に諸国所課を実施するなどその権限の強化に協力してきた。また、白河上皇も院庁の人事を師実に一任するなど、師実を国政の主導者として認める政策を採ってきた[7]・・・・

ゴッドマーザーを失った摂関家は、自己の後任(息子)を任命してもらうのに上皇の関与を求めるしかなくなったようです。
これでは摂関家は院の意のままになるしかありません。
この構造変化が、保元〜平治の乱に繋がり摂関政治が完全に終わりを告げ、摂関政治対抗のために権勢を振るった院政共に時代に取り残されることになったのです。
保元の乱の原因は天皇家内の恩讐や、摂関家内の恩讐など入り乱れていますが、その一つに摂関の後継争いがあった記憶です。
これが鳥羽法皇にいいように操られた(本気で中立を保ったのか不明ですが)ことが複雑化した原因でした。
ちなみに氏長者は、藤原家内の資産継承者の地位決定ですが、保元の乱の戦後処理では後白河天皇から、忠通が氏長者に命じられますが、忠通は藤原一族内への干渉の先例作りをにわかに受けることができず、かなり経過してからやむなく受諾した経緯があります。
次期摂政の地位を息子Aに譲るのにこれまで藤原彰子の指名でよかったのに彰子死亡後は上皇の任命が必要になっただけではなく、保元の乱以降では藤原氏の権勢凋落につけ込んで?藤原一門の家督相続・・氏長者決定にまで朝廷が介入するようになってきたことになります。
ちなみにこの慣例によるかかどうか不明ですが、例えば、徳川将軍任命の宣旨には、源氏長者の任命とセットになっていたようです。

日本の危機対応力(米国支配と民族危機)3

アメリカインデイアンに対するアメリカ政府の処遇に関する私の過去ブログ意見は、文献引用でなかったようです。
昨日紹介した過去ブログを見て知識源を(なぜか?)突如「本だった!」と思い出して自宅の書籍を引っ張り出すとNHK出版2011年10〜11月号「歴史に学ぶ」「アメリカ先住民から学ぶ」阿部珠理著の本が出てきました。
これの60pあたりから、強制収容すべくトラックに子供が乗せられ(ナチス映画で貨車に詰め込まれるユダヤ人の様子を彷彿させる光景です)、車のエンジンがかかると、トラック荷台周辺に群がっていた母親らが連れ去られる子供の髪の毛を形見に切リトル様子が描かれています。
上記引用したブログの頃に読んだ本は、このような情緒的なものではなく、強制移住させられる経緯等データに基づくかっちりした論文だった記憶ですが、この原稿を書いている現在自宅のどこにあるかすぐには(最近リビングの書物を大整理したばかりで・根拠のあり堅実な論文系は娘に引き渡したので手元になさそうです)探せません。
現在の米国としてはインデイアンに対する保護政治は・・少数民族を保護している人道国家の触れ込みですが、よく知られている黒人奴隷制度がいきなりできたのではなく、アメリカ合衆国の本質は恐るべきジェノサイド志向の国家です。
以下は単なる推測意見のようですが、こういう意見が普通に出ていることがわかります。
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/367.html
投稿者 sagakara 日時 2010 年 6 月 21 日 22:31:46: Va70ZvAvjnToE

アメリカ合衆国でアメリカインディアンの血筋を引く人は、わずかしか残っていない。
それに対して、メキシコでは70%位の人が原住民の血筋を引いているという。
アングロサクソンは、情報操作でアメリカインディアンは、白人が持ち込んだ天然痘などの伝染病で90%のもの人が亡くなったという説を流している。
しかし、メキシコでは原住民の血筋を引く人が混血しているが多数生き残っている。
そこで、一つの仮説を立ててみた。
アメリカ合衆国には黒人が10%位いて、メキシコには少ない。
これは何を意味するか。
アメリカ合衆国の白人達は、アメリカインディアンを虐殺すると共に、生き残ったアメリカインディアンをも奴隷として皆殺しに近い状態まで追い込んだ可能性が強いと思われる。
アメリカインディアンの奴隷がほとんど死んでしまったので、白人達はアフリカから黒人奴隷を連れて来たのだと思われる。
これは歴史の闇にかき消されていく本当の真実かも知れない。
今回、ある仮説を立てみたが、アングロサクソンの凶暴性は、太平洋戦争・朝鮮・ベトナム・湾岸・アフガン・イラク戦争と近年になっても大量殺戮を繰り返す事で証明されている。

米国によって戦争に引きずり込まれ列島支配を受けたのは日本民族始まって以来初の民族消滅危機でしたが、占領開始時に軍政を布こうとしたGHQ(マッカーサー)と近衛内閣が交渉してこれを撤回させたのを皮切りに、天皇制維持成功〜国内生産許可(約5年間かかりました)その他着々と対応して行き、最後は独立を回復していきます。
アメリカのイラク侵攻やアフガン侵攻の失敗は、パパブッシュ大統領がイラク侵攻前に「日本でうまく行ったから大丈夫」という趣旨の発言していたので、日本人としては失笑ものでしたが、どこの国でも日本人同様の適応力を持っていると誤解したのが間違いでした。
日本はアメリカの邪悪な魂胆を非難することなく日本が反省すべき点は反省し、国民一丸となって精神世界を果敢に切り替え、理不尽な点があっても「忍び難きを忍び耐え難きを耐える」隠忍自重の粘り強い交渉の結果、徐々に主権回復をしていき、ついにサンフランシスコ講和条約・・独立にこぎつけたのです。
終戦の詔書の後半部分の引用です。

・・・・然(しか)ルニ交戰已ニ四歳(しさい)ヲ閲(けみ)シ 朕カ(が)陸海将兵ノ勇戦 朕カ(が)百僚有司ノ励精 朕カ(が)一億衆庶ノ奉公各々最善ヲ尽セルニ拘(かかわ)ラス(ず) 戦局必ス(ず)シモ好転セス(ず)世界ノ大勢亦我ニ利アラス(ず) 加之(しかのみならず)敵ハ新ニ残虐ナル爆弾ヲ使用シテ 頻(しきり)ニ無辜(むこ)ヲ殺傷シ惨害ノ及フ(ぶ)所(ところ) 真(しん)ニ測ルヘカラサ(ざ)ルニ至ル 而(しかも)モ尚(なお)交戦ヲ継続セムカ 終(つい)ニ我カ(が)民族ノ滅亡ヲ招来スルノミナラス(ず) 延(ひい)テ人類ノ文明ヲモ破却(はきやく)スヘ(べ)シ 斯クノ如クムハ(ごとくんば)朕何ヲ似テカ億兆ノ赤子ヲ保(ほ)シ皇祖皇宗ノ神霊ニ謝セムヤ  是レ朕カ(が)帝国政府ヲシテ共同宣言ニ応セ(ぜ)シムルニ至レル所以ナリ朕ハ帝国ト共ニ終始東亜ノ解放ニ協力セル諸盟邦ニ対し遺憾ノ意ヲ表セサ(ざ)ルヲ得ス(ず) 帝国臣民ニシテ戦陣ニ死シ職域ニ殉シ(じ)非命ニ斃(たお)レタル者及其ノ遺族ニ想ヲ致セハ(ば)五(ご)内(ない)為(ため)ニ裂ク 且(かつ)戦傷ヲ負ヒ災禍ヲ蒙(こうむ)リ家業ヲ失ヒタル者ノ厚生ニ至リテハ 朕ノ深ク軫(しん)念(ねん)スル所ナリ 惟(おも)フニ今後帝国ノ受クヘキ苦難ハ固(もと)ヨリ尋常ニアラス 爾臣民ノ衷情(ちゆうじよう)モ朕善ク之ヲ知ル 然レト(ど)モ朕ハ時運ノ趨(おもむ)ク所堪(た)ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ(び)難キヲ忍ヒ(び) 以テ万世ノ為ニ太平ヲ開カムト欲ス

朕ハ茲ニ国体ヲ護持シ得テ 忠良ナル爾臣民ノ赤誠(せきせい)ニ信倚(しんい)シ常ニ爾臣民ト共ニ在リ 若(も)シ夫(そ)レ情ノ激スル所濫(みだり)ニ事端(じたん)ヲ滋(しげ)クシ或ハ同胞排擠(はいせい)互ニ時局ヲ乱(みだ)リ 為ニ大道(だいどう)ヲ誤リ信義ヲ世界ニ失フカ(が)如キハ朕最モ之ヲ戒ム 宜(よろ)シク挙国一家子孫相伝へ 確(かた)ク神州ノ不滅ヲ信シ(じ) 任(にん)重クシテ道遠キヲ念(おも)ヒ 総力ヲ将来ノ建設ニ傾ケ 道義ヲ篤(あつ)クシ志操ヲ鞏(かた)クシ 誓テ国体ノ精華ヲ発揚シ世界ノ進運(しんうん)ニ後(おく)レサ(ざ)ラムコトヲ期スヘ(べ)シ 爾臣民其レ克ク朕カ(が)意ヲ体(たい)セヨ

17日紹介した東京大空襲の記事や上記を詔書を見ると日本人の多くはこのまま戦争が続くと本当に民族皆殺しになるまでやられるか?という極限状況に置かれていたことになります。
部分的にもう一度引用します。

「敵ハ新ニ残虐ナル爆弾ヲ使用シテ 頻(しきり)ニ無辜(むこ)ヲ殺傷シ惨害ノ及フ(ぶ)所(ところ) 真(しん)ニ測ルヘカラサ(ざ)ルニ至ル 而(しかも)モ尚(なお)交戦ヲ継続セムカ 終(つい)ニ我カ(が)民族ノ滅亡ヲ招来スルノミナラス(ず) 延(ひい)テ人類ノ文明ヲモ破却(はきやく)スヘ(べ)シ」

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