対外能力と内政能力2(吉宗1)

8代将軍吉宗については、質素倹約と軟弱政治からの脱却・・武の再興ばかり物語的にはもてはやされますが、彼が中興の祖となれたのは、国内屈指の複雑な政治状況にあった紀伊半島の大半を施政下において来た初代頼宣以来三代にわたる利害調整能力の高さ・統治経験が買われたと見るべきです。
江戸幕府創設後武断政治から文治政治への移行と言っても、当初は天海僧正のような宗教・哲学者の意見に頼っていましたが,・・・・これでは具体的政策決定に役立たないので儒学を取り入れて脱宗教になって行った経緯を、03/14/08「政策責任者の資格9(宗教の役割2)」等で以前書きました。
綱吉や家宣までは、林大学頭や荻生徂徠、論争の鬼と言われた新井白石(正徳の治)が重きをなしていたことがその象徴です。
金の含有量を減らして発行していたのを改めた貨幣改鋳問題はその最たるものですが,今で言えば量的緩和は紙幣濫発→紙幣価値低下になる・・政府の信任にかかわるので許されないという道徳論・伝統的経済学者の意見によったのが、新井白石となります。
しかし学者の意見では理論が一貫するものの、複雑な利害調整・・政治判断までは、出来ません。
学者間の自由な論争は必要ですが、経済に対して専門的識見のない儒教学者の道徳的意見が政治決定に採用される仕組みは問題です。
赤穂浪士の義挙に対する裁断に荻生徂徠の意見が通ったと書いたことがありますが,裁断するのは綱吉であるとしても、学者の意見がモロに採否の対象になること自体問題があると言う意見で書いています。
まして、儒学は経済・・商取引に関するルールではない・・農業社会ムキ道徳ルールですから,商取引が発達した江戸時代中期以降社会ルールの参考にはならなくなったことを、04/14/08「儒教から法へ2(中国の商道徳)」で書いたことがあります。
上記コラムで書いたとおり、日本は最早中国から学問を輸入しても商品交換経済に入った日本にとって有用な知識をえられなくなった・・もっと進んだ社会に入って行ったのが、吉宗以降の社会状況です。
失われた20年と言われますが、そのころから日本は欧米先進国の未経験の領域に先に入って行ったので、何かテーマがあると直ぐに「欧米では・・・」と訳知り顔で講釈する学者の意見が役に立たなくなったのと似ています。
法と政治の分離・・(裁判はプロに任せるとして・・)経済学と政治との分離・・(金融政策はある程度経済のプロに任せるとして・・財政政策までは任せない)等等の必要が高まったのが吉宗以降の社会でした。
吉宗以降学者の出番が減ったことを見ても、(現在政治では、経済学者や政治学者の意見を参考にする程度の関係になって行きます)政治が具体的利害調整に移って行ったことが分ります。
「東大教授やノーベル賞学者の言うとおり政治をしていればいい」(自動運転で足りれば政治家が要りません)と今では誰も思わないでしょうが、このような時代が吉宗から始まっているのです。
紀ノ川沿いの歴史地図を子供の頃に見た記憶がありますが,紀州随一の穀倉地帯にも拘らず根来寺領や高野山領などが入り乱れているのに驚いた記憶があります。
根来衆と言えば歴史に残る大ゲリラ集団ですし,外に有名な雑賀衆も和歌山城の直ぐ近くに控えている関係です。
高野山は言うまでもなく大名と言うより武門とは別格で、それぞれややこしい関係のママ幕末まで来ました。
熊野や勝浦方面はこれまた有名な九鬼水軍の根拠地でしたし、(九鬼氏は遠くへ追い払われましたが・一族郷党関係はそのまま残っています)熊野詣で有名な那智大社関係も大名家にとってはややこしい関係です。
外に本居宣長の出た伊勢の国もその領地ですが,ココはまた蒲生氏郷の築城した松坂城をそのまま受け継いでいて,名古屋から行くと松坂の先(紀州寄りに)に伊勢神宮があるので,別格の伊勢神宮も抱え込んだ関係になります。
言わば紀州徳川家は、群雄割拠の精神状態のままその上位機関(伊勢神宮や高野山に対しては上位とは言えないでしょう)として落下傘部隊のように舞い降りた大名家でした。
55万石にしては地図上の領土が広いのは、平野部が少ないことと内部が虫食い状態だったことによるのでしょう。
吉宗が将軍位を獲得出来たのは,初代徳川頼宣以降このややこしい政治を見事にこなして来た実績・・内政調整能力にたけていた点が重視されたものと見るべきです。

対外能力と内政能力1

06/08/10「(1)政権交代と実務能力」で少し書きましたが、創業と守成の区別は、言わば創業は対外戦争に勝ち進むことですが、守成・統一後は国内の利害対立の処理能力の巧拙に移ります。
国内・・勢力圏内の利害対立の処理がうまく行かないと、直ぐに不満が起きて政権が持ちません。
対外的な交渉はどちらが正義に近いかの競争よりは、先ずは強い方が勝ち・・武力をちらつかせて要求をのませられますが、国内利害対立の処理は権力だけではどうにもなりません。
対日戦争では、勝った方が自分の悪いところを全て日本に押し付けて外交上の勝ちをきめました。
国内利害対立の解決は権力で押し付けさえすれば良いのではなく、公正な判断やタフな交渉能力が要求されます。
(これを比較的無視し易い政体と言うか、そう言う能力のない社会では,政権奪取後、専制君主制〜問答無用形式の恐怖政治・ロビスピエールやフランスジャコバン〜ソ連の粛清政治〜中共政権〜現在の北朝鮮体制あるいは軍事独裁体制になりますが、民主的と言われる大統領制とどのように違うかを以下見て行きます。)
創業と守成の違いを06/08/10「(1)政権交代と実務能力」のコラムで後醍醐帝と足利政権の違いで書きました。
アメリカの大統領制は、国内政治の利害調整は(法案成立までの調整は)議会でやり、(法成立後は)裁判所(どんなことでも裁判で決着を付ける国ですから行政裁量の余地が我が国よりも小さい)が行ない、大統領はその結果を執行することと対外戦争をすることだけです。
ですから議院内閣制のように利害調整の経験がない・・利害調整に長じた人材が、大統領になる制度ではありません。
言わば創業・・対外的大統領選に勝ち進むだけ・・戦国時代で言えば、天下統一に勝ち進むだけの能力で足ります。
戦国大名も天下統一までの長年の過程で部下への気配り・内政が必要でしたが、さしあたり迫って来る敵と戦い・・対外戦勝利が第一ですから、勝ち進めば恩賞が多いので不満が簡単に解消出来ます。
信長〜秀吉はこのタイプに特化していたので効率が良かった分、恩賞に当てるべき新規獲得領地が減って来ると、(耐えざる拡張主義に走らないと)人心掌握が難しくなります。
後醍醐天皇や新田義貞・楠木正成などは、朝廷復権というイデオロギーは確かでも実務・・内政訓練を受けていない点が,北条氏を倒して権力を握ってみると利害調整能力欠如からたちまちのうちに人心離反を招いてしまった原因です。
成り上がりの秀吉は対外拡張一本でやれて効率が良かったのに対して,拡張が止まると過去の成功体験が役に立たないので,内政に苦労し始めます。
家康は、子供のころから家臣団の統制に苦労して来た経緯があって、(これに比例して必要な人材も育っていたので)内部調整能力が高かったことが徳川300年の基礎になりました。
徳川300年は対外戦争能力ではなく、内政・利害調整能力を問われた時期でした。
家康の多くの男子の中で戦功のあった結城秀康等武功組の子孫が次々と失脚して行ったのに対して、軍功の低い秀忠が将軍になり、複雑系の10男頼宣が紀伊徳川家の初代になれたのは偶然ではありません。
大名家で言えば複雑系能力の高い細川や加藤清正が生き残り,単純系の福島正則が失脚したのも同じ基準になります。
物語では如何にも武断派が利用された上で切られた・・家康は腹黒いというストーリーですがそんなことではなく,平和になれば乱暴なだけではどうにもならなくなったからです。
この争いが石田三成と武断派の争いで、(内政中心になって来ると武断派は能力がないのでないがしろにされ勝ちですから面白くなくなって来たのですから仕方のないことでした)これに家康が乗じて豊臣家を乗っ取ったのが歴史の流れです。
徳川家は身内を折角越前120万石の大守にしていても、その子孫をドンドン失脚させていますが、家康は自分の生きているうちは義理があると言って、武断派から文治派への入れ替えを慎重にやったことが成功の秘訣でしょう。

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