稼働停止/廃炉の影響1(反対運動の論理)

蓮舫氏の国会質問〜フェイクニュースなどが挟まりましたが、原子力発電稼働停止や廃止と地域経済の影響に戻ります。
http://blogos.com/article/93288
記事
宇佐美典也
2014年08月27日 20:35
原発が止まった原発の街「柏崎」の現状
先日とある人のご案内で久しぶりに柏崎に行ってきました。柏崎刈羽原発を見学に行った後に諸々観光地ご案内して、帰ってきたのですが、彼の地の厳しい現状を改めて感じました。
まずは柏崎市の現状についてなのですが、近年なかなか厳しい状況が続いておりまして、1995年の10.1万人をピークに人口は減り続けており2014年7月現在では87928人となっております。タダでさえ苦境が会ったところに柏崎刈羽原発の稼働停止も重なり、人口減少のペースがやや加速しています。では柏崎の産業が原発に依存しているかというと決してそうでは無く、ブルボン(菓子)やリケン(自動車部品)といった全国ブランドの会社が今でも柏崎で活躍しています。原発は稼働してしまうと基本的にはスタンドアローンで稼働し続けるので、直接の恩恵を受けているのは実際に雇用されている職員や、地元の建設・メンテナンスメーカーなど一部に限られています。
柏崎における原発の恩恵の多くは間接的なもので <①原発立地 ➡②立地対策交付金、使用済核燃料税、固定資産税、法人市民税などの税収増 ➡③市民に還元>という具合になっています。
では柏崎の税収のいかほどが原発がらみなのかということで同市の平成26年度の予算を見てみますと、歳入の484億円のうち、原発関連交付金が26.0億円、使用済核燃料税が5.7億円、その他市の固定資産税90億円の内の2/3程度(50億〜60億円程度)は東電からのもの思われ、総計で毎年合計で80億円〜90億円程度と思われます。
そう考えると市税156億円の内の約半分、歳入484億円のうちの約15%弱が原発からの収入ということになります。こうみると「原発無しでも柏崎はやっていける」というのは市の財務面では無茶な主張ではありますが、市民の生活面では十分可能な話なのかもしれません。
実際一般の柏崎の市民の方が「原発再稼働に必死」と感じたことはありません。
なお固定資産税は「原発がいつか稼働する見込み」である限りは、赤字でも当面は入ってくるので柏崎刈羽原発の地震・津波対策が進んだ結果固定資産税は皮肉にも近年は増収しています。本来ならこれにプラスα(5億円〜10億円)の法人市民税が入ることになるわけですが、累損が膨らんだ東電からは当面法人税は期待できないため、短期的には柏崎市に取って原発が稼働しようがしまいが税収は変わらないということになりますが、やはり長期的には稼働してもらわないと100億円近い税収減に見舞われることになります。」
上記記事は当面の税収だけを問題にしていて、労働者がいなくなることによる市内業者の売上減や住民税その他の税収減を書いていません。
原発関連労働者がどれだけいるかですが、原発の場合それがある限り稼働してもしなくともそれほどの差がないようにも見えます。
再稼働に反対しているだけならば、固定資産税等は無くならない上に、維持管理用の労働力投入がなくなりません。
原発の運転自体がほぼ自動操業で多くは計器類の監視業務中心・・稼働停止中も維持管理労力は必要ですから労働者の激減もありません。
一般的製造業の場合仮に全自動化していても製造中には原材料の搬入・製品・廃棄物搬出等の動きがありますが、原発の場合ウランの搬入搬出がしょっちゅう必要がない上に製品は送電線によるので、一般製造業のように生産休止か否かによる活動量の差異は殆どありません。
結果的に一旦稼働してまった原発工場の場合、工場がある限り操業してもしていなくとも地元に落ちる金がほぼ同じ=企業にとって稼働してもしなくともランニングコストがあまり変わらないとなれば、稼働停止だけ続けば地元経済にはほとんどマイナス効果がない・・蛇の生殺しのようで電力業界が維持管理コストとばかりかかって疲弊する一方です。
「稼働に同意してほしいならばもっと好条件を出せ」というヤクザみたいな政治手法が可能になっています。
被害救済と言えば聞こえがいいですが、一種の被害者ビジネス・・ゴネ得(いう表現自体も頭から否定的な表現という批判があるかと思いますが)に徹するとその帳尻は電力料金に反映します。
結果的に電力会社が全部倒産しても良いと言えない結果、回り回って国民全部の負担になります。
廃止に決まっても完全廃止までに数十年かかり、その間に廃止に向けた新規労働力投入が増えて逆に活気が出る(福島原発では事故前よりも多くの労働量が投入されている)ので10〜20年は「地域経済・税収には関係がない」しかも反原発運動をしている方が自治体懐柔のため、あのてこの手の好条件提案を期待でき、政府投資を獲得しやすいという戦略でエゴを煽るポピュリズムが地域政治の世界を制しているのでしょう。
「釣った魚に餌をやらないのはあたり前」という論理で中国が進出企業いじめするのと同じ手法です。
一般製造業の場合には、あまりひどい要求をされれば投資資金を無駄にしても撤退する道がありますが、原発の場合今の技術では「稼働反対ならばすぐに撤退します」と言えない・相手の足元を見た卑劣なやり方です。
廃止を決めたら数年で解体撤去出来て跡形もなくなるような技術革新が進めば、先行投資を捨てる覚悟さえ出来ればいいので、原発立地自治体の無茶な主張はその限度内で治ります。
中国による先進国からの進出企業への(知財解放せよ技術移転せよ等の)一見無茶な要求は、世界企業に撤退決意させない限度内で行われていることになります。
16年の新潟知事選は以下の通りです。
http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/report/15/110879/101700460/
2016年10月18日(火)
任期満了に伴う新潟県知事選は10月16日投開票され、無所属で新人の米山隆一氏(共産、自由、社民推薦)が前長岡市長の森民夫氏(自民、公明推薦)らを破り、初当選を果たした。
 東京電力柏崎刈羽原子力発電所の再稼働が主要争点になったうえ、選挙戦の途中から実質的に与野党対決の構図となっていた。」
新潟県民にとってはすぐに撤退されると困るが、稼働停止だけならば地域経済に与える影響が運転中と殆ど変わらないから加津反対を主張する政治家に票が集まる構図です。
電力会社側から見れば稼働停止が続けば、停止中のコストが稼働中とほとんど変わらないで収入だけゼロですから、現地自治体の(「あれをやれこれをやれ」受入れないと同意しないという)無理難題でも受け容れるしかなくなります。
この結果現地では、現地要望を受け容れるための各種大規模補強工事が花盛り・・結果的に特需景気に沸いていることになります。
沖縄県民が基地反対の大義?によって反対運動が過激化する一方になってきたのは、
「いくら過激な主張をしてもアメリカ軍が撤退出来る訳がない」という思惑で反対運動をしてきた結果→冷戦終結に伴い米軍がフィリピンから完全撤退し、日本でも沖縄基地縮小→グアムへの集約化の方向が出てきたので一時大人しくなっていた印象でした。
2010年頃からこれを引き止めるために?北朝鮮が活発化し、中国による沖縄諸島全体への侵略意図を前提にした尖閣諸島に対する攻勢をかけ始めたことによって、今度は日本政府(日本人全体)が沖縄基地縮小どころではない状態・逆に防衛力強化必須化に追い込まれたことによって、俄然反対運動が勢いを持ってきた印象です。

異次元緩和の先例・・金兌換の停止→紙幣の変化

もともと政治というものは、過去の踏襲だけでは社会変化に対応できないので、新たな方法を切り開いてこそ成功するものです。
日本では保守主義とは伝統を大事にしながら時代に即応して修正していく政党やその支持者のことであり、革新とか進歩主義者とは過去の理論にこだわり、現実即応を敵視・軽視する政党支持者のことであると書いてきました。
数百年続く老舗企業は概ね上記保守思想によって柔軟経営をしてきた企業です。
アメリカのGEが代表的ですが、祖業でさえ果敢に入れ替えていく方式が知られています・・これこそが企業を守る=保守の本領発揮というべきでしょう。
戦前の大恐慌に際して金交換停止したのは、既存の枠を乗り越える勇気ある行動の一つです。
昨日紹介した通り、アメリカFRBもリーマンショック後の金融市場の下支え・需要喚起策に取り組んだし、EUのECBもリーマンショックに遅れて顕在化した欧州危機の打開策として、伝統的な金利下げにとどまらず債権や株式の相場下支え目的で「異次元」量的緩和をして市場介入して来た点は同じです。
「大機小機」が異次元緩和の副作用を批判したいならば、リーマンショック後約10年もの実験期間を経ているのですから、この間の異次元緩和・市場介入が具体的にどのような悪い結果を引き起こしたかの具体的議論をすべきでしょう。
伝統理論に合わないことに対する反感から?「国内実体経済を反映していない」という結論だけを書いて、公的資金投入批判論に移行して行くのでは、「社会変化は何事でも良くない」という感情論と区別がつきにくくなります。
伝統的価値.慣行にはこれを裏付ける(キリスト教神学のような)確固とした理論があり、インテリ・専門家はせっかく習得した自己の優越的地位を守るために伝統解釈に反する行為に反感をいだきがちです。
私は、中国の政府による市場介入に関してMay 19, 2017「社会保障や国債と世代間損得論3」のコラムで先進国の異次元緩和とどこが違うかという疑問を呈して置いたことがあるのは、中国贔屓で書いているのではなく、同様の疑問によります。
「大機小機」が批判するならば、現在公的資金が市場にどのよう悪影響を及ぼしているかを具体的に論じれば分かり良いでしょうが、株式相場が「国内」実体経済と乖離している」ことに結びつけるから、ややこしくなるように思います。
もともと財政金融政策というものが発達したのは、国内実体経済の流れに委ねておけばスパイラル状に悪化して行くからこれを緩和しさらには逆転させるために行う・・あるいはバブル化していく場合、早めに引き締めて抑制するなど逆の場合もあります・・ものですから、もともと国内実体の方向性と違うものです。
金融政策は国内実体と逆方向を向くことは、あたり前過ぎる行為です。
昨日紹介したウイキペデイアによるFRB異次元緩和の説明は、「効果がないならやめる」べきという伝統理論を前提にした「必要悪論を前提にした出口戦略」の立場で解説(解説者=伝統理論を習得したものが中心)したものと思われます。
多分欧米や日本識者の見解は、こういう前提に立っているからでしょう。
戦前の金兌換停止が大恐慌による特殊臨時のものとして一刻も早く兌換制に戻るベキという原則論が底流にあり、一時金兌換制度を復活した国もありましたが、当時は金兌換の裏付けのない紙幣など信用される訳がないという天動説のような考えを忠実に守っていたのです。
兌換制廃止の国々は金がない(狐の発行した落ち葉のような)いつまでたっても本来の金交換ができないで紙切れで経済を運営している気持ちになっている可哀想な国だ・・というスタンス・・アメリカだけが金本位でやっていける国というスタンスでした。
戦後の通貨制度は、金本位制ではなく、「金為替本位制」と言われドル以外は擬似通貨・・江戸時代の藩札扱いでした。
「各国通貨は一定率(日本が1ドル360円であったように当時固定相場でした)でアメリカドルに替えて貰える→USドルはいつでも一定率で金に替えてくれる」ということで信用を保つ・・これがアメリカが基軸通貨國と言われた所以でしたが、ニクソンショックによるアメリカドルの金交換を廃止後は、理論上アメリカドルはその他諸国通貨と同じ地位になったので、本来の基軸通貨の地位を論理的に喪失したはずです。
幕末の大政奉還によって、対朝廷関係では将軍家が諸大名と同列になったのと同じです。
幕府は事実上政局に対する発言力が空洞化してからの政権投げ出しでしたから、想定どおりでショックもなくその後(直後の小御所会議のクーデターで)名実ともに発言力を失いましたが、アメリカの場合まだ十分な余力・実力を残しての投げ出しでしたので、世界にニクソン「ショック」を与えたのとの違いです。
為替の交換比率がUSドルとの交換中心で戦後約30年間発達してきた結果、その他の国同士の直接為替市場が育っていない結果、事実上「円を一旦ドルに替えてそのドルとさらにマルクやバーツ、フラン、ポンドに変えて行く」しかない状態・・一種の惰性が続いているにすぎません。
時の経過で円と人民元の直接取引き市場が育ってきたように、徐々にUSドル表示での世界取引比重が下がってきています。
いわば、メデイアがUSドルが基軸通貨の強みとしょっちゅう表現しますが、これは比喩的な表現でしかなく(だから分かりにくいのです)、国際ハブ空港が地域にないのでハブ空港まで行って乗り換えるしかない程度の意味です。
金本位制に関するウイキペデイアの記事からです。
https://docs.google.com/document/d/1B_k-2lcstvNhZWWRqkWpEo0Evf1mJlU7NLjlDEZOEak/edit
その後1919年にアメリカ合衆国が金本位制に復帰したのを皮切りに、再び各国が金本位制に復帰したが、1929年の世界大恐慌により再び機能しなくなり、1937年6月のフランスを最後にすべての国が金本位制を離脱した。 日本では、戦後に金本位制の機会をうかがうも関東大震災などの影響で時期を逸し、1930年(昭和5年)に濱口雄幸内閣が「金解禁(金輸出解禁)」を実施したが、翌年犬養毅内閣が金輸出を再禁止した[7]。FRB議長のベン・バーナンキは、金本位制から早く離脱した国ほど経済パフォーマンスがいいことを証明した[8]。」
ニクソンショック以降、世界中が不換紙幣になりアンカーを失った結果、紙幣の信用維持のために発行主体の中銀の自己抑制が以前より強く要請されるようになったと思われますが、これは精神論であって紙幣価値の本質に関係がない・・金(または国際商品価値)の直接的裏付け・実体がない点は同じです。
今でも通貨発行体は国家・中央銀行だけであり、紙幣価値は発行体・国家の国際市場上の信用・実力・購買力平価や国際収支の動向によって市場で決まって行くことになっています。
実際それ以降の不兌換紙幣・通貨の信認は、為替相場・市場取引によって決まる・・文字どおり金融「商品」の一つになったのに、自制心という呪縛で発行を抑制した結果これを狙った格好の投機対象になっていったのです。
その後ポンド防衛で知られるように通貨の売買が国際的投機商品になったこと自体が、単なる商品の一種に過ぎなくなったことを示しています。
これがさらに進んで紙幣が金融商品の一つという一般認識が定着すれば、発行体を政府・中央銀行に限定する合理的理由がありません。
紙幣が何のためにあるか?商品交換媒体としての効能・・商品に純化していけば、誰が発行したかではなく製品利便性が勝敗を分ける時代が来ます。
老舗企業の製品の場合は当初の宣伝があまりいらない・当初の優位性でしかなく、時間が経てば老舗企業が作らなくとも、製品利便性・商品性能の優れたものが多く売れるようになるのと同じです。
その内ビットコインなどの仮想貨幣も含めて利用価値=使い勝手の良さの競争によって、世界通貨が決まって行く時代が来るかも知れません。
今の通貨は、その背景にある民族国家の経済力を背景にしている点で純粋な商品交換媒体としては不純な要素が混入しています。
金交換制は背景の国力を問題にしていない点・・どこの国の紙幣でも世界共通商品の金と一定率で交換してくれるので合理的でしたが、(この場合もある日突然デフォルトするリスクは防げません)不換紙幣になると紙幣相場は日々変動する・・このために約半年前までの先物引が発達しましたが、リスク管理に限界があります。
国際的商品交換手段である以上背景の民族集団の信用と結びつける必然性がないのですから、民族や国家集団から切り離すのが合理的でしょう。
日銀を紙幣という商品生産業者とすれば、日銀が紙幣発行して国債や株をどんどん買うのは、企業が自己の生産品を何と交換するかはその企業の勝手なのと同様に日銀の勝手と言えます。
将来的に日銀・中央銀行発行の紙幣の利便・信用性が落ちる時が来るとしたら、それに変わるもの・・ビットコインまたはそれに変わる新たな商品に競り負けた時ですから、世界は困りません。
よく地域から売り店がなくなったらこまるという議論がありますが、地域住民がその町内の小売店より遠くのコンビニを選んでいるならばその地域の自己選択です。

高浜原発停止と司法権の限界1

原発事故の被害想定が過大であったかどうかは別として、そもそも国民の信任を受けない司法が、どの程度の確率の安全ならば良いかについて最終決定権があるのでしょうか?
地震予知は科学的合理性では不明の状態にある・・現在科学では何年も前から具体的な地震予知が出来ないことが世界の常識です。
100%確かではない事柄は世の中に有り余るほどありますが、それでも日々何かを決めて行くしかないのが現実社会です・・。
企業で言えば、設備投資リスクや企業買収や、国外工場進出のリスク不明でも一定の情報でやるかやらないかを決断するしかないのですが、その代わり失敗すれば決断したトップが責任をとるしかないのが政治責任と言うものです。
原発安全基準もどの程度の地震がいつ来るか全く不明なので、原発設置するべきか否かも工場進出同様の政治決断しかない分野です。
政治が決めた決定基準・・その道のプロ集団がしている安全基準や適合性判断を司法権が否定するのは憲法違反行為です。
革新系は頻りに政治運動で負けると憲法違反を叫びますが、本来政治で決めるべきことを司法で決めるべきだと裁判を仕掛けること自体が憲法違反を(ガードの甘い裁判官が一定割合でいるでしょうから、)誘発するための運動になります。
権限外の判断をして憲法違反するのは担当裁判官であって、仕掛ける弁護士の責任ではないとしても、しょっ中仕掛ければタマにドジな裁判官に引っかかると言う意味で違反を誘発する方にも相応の道義責任があります。
国家にとって重大な事柄を、本筋の訴訟手続でない簡易な仮処分で決めるとなれば、二重に権限逸脱の可能性があります。
上記のとおり慎重審理の本案訴訟の結果決めても司法の範囲外・・権限外の疑いがある上に、軽易迅速を旨とする仮処分手続で決定をするには慎重審理する時間を待てないほどの巨大な被害が起きることプラス緊急性認定が必要です。

民事保全法(平成元年十二月二十二日法律第九十一号)
(申立て及び疎明)
第十三条  保全命令の申立ては、その趣旨並びに保全すべき権利又は権利関係及び保全の必要性を明らかにして、これをしなければならない。
2  保全すべき権利又は権利関係及び保全の必要性は、疎明しなければならない。

上記保全の必要性がこれにあたります。
保全の必要性とは本格的訴訟手続による判決を待てないほどの緊急性と被害の大きさの掛け算です。
これまで被害想定の重要性を書いてきました・・・・昨日伊方原発再稼働にはコストがかかり過ぎるので断念するとのニュースが出ていましたが、過大に被害想定すると対策費用がこれに比例します・・産業を活かすも殺すもコスト次第・被害想定次第であることが明らかにされたと思います。
以下事案の緊急性認定に関心を移して行きます。
判例時報などで決定文が活字化するのは約半年後ですので、まだ決定理由を見ていませんので詳細不明ですが・・。
どこかネットに出ているかも知れませんが、私は仕事の合間にこのコラムを思いつきで書いているのでまだ見る暇がありません・・判例時報に出れば仕事の一環として読むヒマがあります。
高浜原発のある地元福井地裁の停止決定が(同地裁の別の部か高裁だったか記憶していませんが)最終的に否定されているのに、もっと遠い隣県の大津地裁の方が危険・・本案訴訟の結果を待てないほどの緊急性があると言う決定になったのが不思議です。
(ただし決定の違いが危険性の差であるとした場合です・・)
28年3月11日に医療事故のミス認定判断との比較で書きましたが、実害が起きた後の医療ミス判断は、いわゆる「後講釈」ですからそれほど難しくないし、司法判断に馴染まないとは思いません。
交通事故や予防接種などを見ても分るように、事故が起きた以上は余程のことがないと、過失なしと言う判決を受けるのは難しいことも国民が納得しています・・。
実際に死亡事故など実害が起きている場合、相応の補償か賠償して補填すべき必要性もあります。
しかし,事故が起きる前に道路交通法の基準・・あるいは建築基準法の基準・・飲食で言えば保健衛生基準等々が緩過ぎるかどうかの合理性を事故前に司法が判定して良いか・・しかも他の批判を許さないかのような即時効(仮処分)を認めて良いかは別問題です。
数学の公理のようにはっきりしている分野では専門家が最終決定する仕組みで良いのですが、上記のとおり専門家でも地震予知不可能である以上は最終的に政治が決めるべきです

原発被害基準5(操業停止が許される場合)

建築基準・・クルマや食品基準等の過大規制があっても、(作れない訳ではないが、コストアップで国際競争に不利な基準)その業界が技術的適応可能な範囲の厳しい基準ですが、努力次第で何とかなります。
チャーチルかイーデン回想録かはっきりしませんが、英米がどんなに理不尽な要求を突きつけて日本人に意地悪しても、日本が反抗せずに努力して最後にはクリアーして来る不思議な国民性だと書いているそうですし、最近ではイタリア料理に修行に行った日本職人が散々にやがらせされても日本人が頑張り抜いたので、結局日本人がいないとイタリア料理が成り立たないとさえ言われるようになっているようです。
日本国内にも先議産業復興を妨害するのが目的かのような意地悪なマスコミが勢力を張っているのですが、(アメリカによる平和憲法強制・・武装解除を利用して日本は軍事費負担を免れて来たし、飛行機製造禁止されると新幹線を作るように)正面から反抗せずに黙って努力する国民ですから、結果的に世界一の低燃費・無公害システムが出来上がってしまいました。
(アメリカで日本車が席巻中なのは、日本車閉め出し目的で規制を厳しくした結果日本車だけがクリア−してしまったことによります)
産業発展の芽が出るたびに危険だと大騒ぎしては一々イチャモンつけて来たグループの功績と言えば言えますが、彼らはただ戦後日本の復興妨害・遅らせるために?アメリカが占領政策継続のために残しておいた反日運動を継承して来たのが思わぬ結果になったようです。
イジメッ子・嫌がらせをしていた結果苛められる方がグレないでまじめに対応して来たから、却って良い方へ(飛行機製造禁止が新幹線技術になったようにあらゆる分野で)日本人の智恵で変身してきました。
安全基準を厳しくする場合、企業に努力するチャンスを与えることにもなるので社会発展の原動力となることもありますが、特定業界に対して業務停止までを命じるようになると,適応努力を許さない・・その産業の存続を許さない国家意思になりますから、違反の連続性や国民一般に対する巨大な権利侵害の緊迫性が要請される・予兆の反復性などの要件が必須です。
原発は何回も安全基準に違反していてこれまで注意や勧告を受けたりしていたのでしょうか?
過去の基準で事故が起きたとしても今回は新たな基準が策定されたばかりでまだ違反していないでしょう。
何の違反もなくとも(世論のムード?を民意に敏感な?裁判所が嗅ぎ取って)今後違反しそうだと言うだけで、違反もないのに予め停止を命じることが許されるのでしょうか?
それとも過去の基準で事故が起きたから、今回の基準そのものが信用出来ないと言う連続性を言うのでしょうか?
これらの批判に耐えられるように、もしも事故が発生したら被害が大き過ぎるから1回も違反がなくとも(何となく怖いと言うムードだけで)停止を命じられると言う世論造り・・伏線が用意されていたように見えます。
違反ががなくとも危険だから許さないとなれば、「日本中の原発を許さない」と同義になってしまい、司法権の行使ではなく政治運動そのものであって、裁判官が司法の名をかりて政治運動をやっていると言う批判になりますがので、そんな乱暴な決定理由にはなっていないと思いますが、「新規制基準自体に対する国民不安を代弁したものだ」と言わんばかりのマスコミ応援もありますので、一応「回復不能な被害」とは何か」・もしかしたらマスコミが国民不安を煽るためにでっち上げたのではないかの関心でこの4〜5日書いています。
マスコミの袋だたきにあって何も言えない単一業界の泣き寝入りで成り立っていた過大規制の習慣が,原発事故を過大に言い立てる応援団となり、今回の仮処分命令正当化の伏線として、「ひとたび事故が起きると大変なことになる」と言う科学根拠のない大合唱の下地になっていた印象です。
具体論に入って行きますと、放射能もれ・汚染・被曝に対する被害想定基準は、大事故発生によって被告席に立ってしまい「そんな過大な基準はおかしい・・」と言う反論さえ許されない状態をマスコミアが作ってしまいました。
何も言えない電力業界の弱みに付け込んで、元々原発反対勢力であった民主党政権が原発産業の息の根を止めるため過大な放射能被害想定基準作成ではなかったかの疑問があります。
民主党政権の設定基準の合理性について・・基準設定が科学的合理性を越えて過大過ぎたのではないか・・と言う視点で、原発事故直後に広島等の原爆被害者に関する戦後70年近くも長年月掛けたデータ等を検討しながら、放射能被害って本当はどうなのか?の疑問で「放射能の危険性2(管理区域)March 28, 2011前後のシリーズで書きました。
当時も今も原発の安全性自体には私も疑問を抱いていて、そのような批判・疑問を繰り返し書いていましたが、それと東電が弱った弱みに付け込んで過大な被害や危険性を強調するのが正しいかは別問題です。
マスコミや人権派は如何にも被害者に寄り添い、手厚い救済を主張するようでいて、活躍の場を作るために?被害の定義拡大が必要・・(マッチポンプ?)→風評被害拡大で実質被害拡大に励んでいる感じです。
私は元々党派性が弱いので,客観的に正しいことを知りたいだけです。
その立場で原発事故当時に広島原爆被害が本当はどういうものだったのかが気になって、約70年に及ぶ追跡調査結果を紹介したのですが、要は被害感情を感情的に強調するばかりで客観的資料からは大した被害が出ていないと言うか、客観的被害資料が一切ないことが分りました。
「放射能、放射能と騒ぐけど大したことないじゃないか」と言うと非国民扱いされてマスコミに干されてしまうので、マスコミに出たい人は反論出来ない状態が続いている印象(私の偏った誤解かも知れませんが・・。)を受けてしまいました。

テロ組織と近代法の原理停止2

グアンタナモ基地での違法?拷問等による取り調べが知られていますので、テロリストが検挙されても保釈で出て来れば良いなどと言う訳に行かなくなりました。
末端のテロ実行者が検挙されたときに訓練場所や連絡組織などを自白するリスクがあるので、これを防ぐためにIS関係のテロは中央の指示ではなく末端が勝手連的にやる仕組みにしたり、その場で自爆してしまう・・犯人が生き残ってしゃべらないようにする方法が発達してきました。
以前は自爆や焼身自殺は自己犠牲の大きさによる社会への衝撃力・・社会へのアッピール力を競う・・これによる自民族抑圧・弾圧を緩和するようになることの期待・・その社会のよりよい変化を期待するものでした。
佐倉宗吾郎など、すべて自己犠牲によって残された家族や同族の生活環境がよりよくなることを期待するものでした。
今のテロでは焼身自殺等に対する「そこまで酷い目に遭っているのか?」「可哀相」と言う社会の同情心→社会変革への起爆剤になるのを期待するのではなく、自分の家族らを含む社会がまとめて被害を受ける・・家族を含めた社会への報復・社会に対する憎悪表現になっているようにみえます。
最近のテロに限らず、テロ行為というものは、自分の捨て身の行為が社会の改善に役立つ・・自分の家族や民族のための捨て石になる行為ではなく、テロの対象となっている社会の安定を破壊する・・その社会・秩序破壊を目的とするものです。
社会とは何か?
「社会」とはその地に住む人々が、古代から営々と築いて来た信頼関係の総合表現である秩序であり文化の集積です。
テロが攻撃対象にしているのは蓄積された社会秩序・信頼の破壊です。
テロ行為が頻発すれば、最後は相互不信が極まり、人影を見れば相手より先に銃で射つしかないような・・お互いの殺しあいに発展すると、次世代への教育どころか、日本人の世界に冠たる相互信頼関係社会が破壊されて行きます。
人影を見れば銃の引き金に指をかけて相手の動きを凝視してから行動する・・自分の五感を働かせて自分を守るしかない社会になれば、公共交通機関など大勢の保安行為に頼り、自分で安全を守れないシステムは成り立ちません。
信頼関係とは、自分がこうすれば相手がこうすると言う信頼・・日本で言えば、自分がへりくだれば相手もへりくだってくれると言う相互謙譲の社会が究極の姿です。
今回嫌韓感情が高まったのは、日本の謙譲の価値観に悪乗りして韓国が虚偽・悪宣伝を尽くしたことにより、共通の価値観で行動出来ない国だと言う認識・・お前を今後信用しないよと言う認識の表明です。
みんなが交通ルールを守ってこそ高速道路を安心して走れますが、逆走する人に対しては、車利用を規制する・・利用仲間から除名しなくてはなりません。
社会とは条文がなくとも相手が「礼儀」を守るだろうと言う相互の行動様式の信頼がある関係ですから、テロとは「礼儀」違反どころか、あるときイキナリ「生命すら奪いに来る」程の過激なルール違反行為をすることです。
戦いに出掛ける場合には危険は当然予測範囲ですが、結婚式や葬儀、あるいはコンサートなどに出掛けている場合には、危険を予測しないで出掛けるのが普通です。
すなわち古代からの約束事でこう言う場合は危険がない・こう言う接遇を受けると言う暗黙の合意・・文化がある・・こうした蓄積がその民族の文化であり「社会」と言うものです。
大声で怒鳴ったり刑罰の威嚇や監視がなくとも、ルールを守る社会は高度な安全文化社会です。
一方で銃で威嚇したり刑罰による威嚇がない限りルールを守らない社会は、低レベル社会ですし、銃の威嚇があっても(自分の死を恐れない)ルールを守らない状態になれば、社会と言うに値しない原始時代に戻るしかありません。
テロは、信頼を極限まで破壊し尽くして「社会」をなくしてしまおうとする行為です。
安全な筈の場所で、銃乱射や地下鉄の爆破事件など・イキナリルール違反される・・これがタマにあるだけならば何十年に一回の天災みたいなものですが、しょっ中になって来ると何を信頼していいか分らなくなります。
信頼が崩れる=社会が成り立たなくなると言うことです。
軍事基地など襲っても、一般市民が近づかなければ良いだけで社会的インパクトはありません。
シリアその他でどんなテロが行なわれていても難民がいくらトルコに流れても遠くの西欧は安閑としていましたが、大量の難民が直截西欧に押し寄せて難民が身近になり、しかもパリで一般市民が恐怖に襲われたので、大騒ぎになったのです。
パリのコンサート会場等襲撃でマスコミがショックを受けていますが、社会の信頼破壊を目的とするテロは、もっとも平和であるべき箇所・・安全と目されるところを襲うことが最も効果的であることが分ります。
電車にも怖くて乗れない・・何をするにも命がけとなれば、高度に発達した社会の血流が止まってしまいます。
即ちテロ行為とは、相手がルールを守ると言う信頼で成り立っている社会に対する挑戦・・社会崩壊を目指していることになります。
テロとは、対象社会に根付いているルールを明からさまに裏切る行為・・相互信頼関係破壊・・秩序・・ルールを守らないことの最大表現ですから、究極的にはその社会の文化集積を破壊して荒廃地にしてしまう・・古代に栄えたメソポタミア地方が現在瓦礫や砂漠の地になっているようにしてしまおうとする営みです。
一時的に不安がらせて、喜ぶ愉快犯とは目的が違います。

©2002-2016 稲垣法律事務所 All Right Reserved. ©Designed By Pear Computing LLC