最低賃金3と国際人権1

海外・新興国の労働者と同じレベルの仕事しか出来ない人の賃金は、同じレベルの賃金しか貰えないのが人道的にも正義です。
企業が能力に応じた賃金しか払わないのは搾取でも何でもありません・・むしろ日本人というだけ・・生まれによる差別で新興国労働者と同じ仕事をしているのに現在中国人の約10倍も賃金を要求し、これを保障している方が不正義です。
自分の働きよりも多く賃金を貰う人にとっては、彼らが得するだけで人権侵害ではないようですが、政府高官の子息だけが何倍もの給与をもらう仕組みがあるとすれば分るように、生まれによる特別待遇を受ける事自体が許されない差別です。
新興国の労働者と同じ仕事しているのに日本人というだけで約10倍あるいは何倍もの高賃金を支払え・維持しろと主張して最低賃金の引き上げを主張している勢力に、国際的人権派がもしも重なっているとした場合矛盾した主張になります。
外国人の人権問題では、日本にいる限り日本人と同額の給与や待遇を受ける権利があるというのは至極尤もなことですが、論者は彼らが日本にいる限り・・目に触れる限度においての人権を論じていることになります。
不法滞在等で収容所に隔離されている彼らの状況・・あるいはひっそりと住む外国人の子供の置かれた状況は一般には知られていないのですから、海外の人権と本質的には同じです。
これを発掘して来て我々一般弁護士に映像等で紹介したのが先日紹介した「外国人の人権」をテーマにしたシンポジュームでした。
海外の人権問題もどこまで発掘して来て問題にするか、目をつぶるかの基準は、彼らのご都合によって気の向いた部分だけ取り上げて、例えば中国の人権は大変だと主張していることになります。
最低賃金の補償要求の根底には、海外との何倍もの格差は当然許されるという視点で議論していることからすれば、その主張者と国際的人権活動の支持者とがほぼ重なっているように見えるところにどこか違和感を覚えます。
・・実証的研究数字を見ていませんが、印象的には支持層がかなり重なる印象ですし、重なるからこそ国内一般弁護士がこうした主張に対する支持層予備軍として、頻りにこうした情報が提供されているのだと思います・・。
「外国人の人権」という熟語から見れば、そこでは確かに国内に所在する「外国人」だけが対象で海外の人権は問題にしないのは当然ですが、古代ギリシャの民主主義と言っても市民権のある選ばれた階層だけのことでしたし、ローマ市民権も同じでした。
現在の国内人権派の人たちは、古代ギリシャの民主主義と同じような格差是認論者なのでしょうか?
同じ国民である限り差別しないという点では、古代ギリシャやローマに比べて平等保障の範囲が広がっていますが、古代には、同一種族・民族意識の範囲が狭かっただけであって、その当時でも同一出身者は同士では対等の市民権があったと思われます。
ギリシャ・ローマ時代に市民権のなかった奴隷階級は被征服民・・今で言えば外国人労働者みたいな関係だったでしょう。
今はその範囲が(今では多民族混在ですが)民族国家というもっと広い概念に広がっただけのことではないでしょうか?
一定の場所的範囲に居住している限り、生まれや人種にかかわらず同じ人権を保障するように変わっただけです。
垣根の基準が現在の民族国家の領域に広げたのでギリシャ・ローマ時代よりもより広いことは確かですが、古代国家に比べて人種や生い立ちに変えて保障の基準を居住している場所的境界に変えたというだけで何らかの差別をしようとしている点では本質は変わらない気がします。
かと言って、他所の国の人たちがタマタマきている場合にまで、同じ基準で生活保障するのはまだ誰も承服しない時代ですから、その差別は昨日書いたように社会保障分野・これに関する参政権分野で残した上で、その他の純粋な人権基準としては世界人類共通にすべきだと思います。
商品交換場面で言えば、何人であろうと500円のものは500円で売るし、(香港や中国では日本人と見れば数倍の値段を吹っかけて来るようですが・・)500円のものは何人であろうと500円で買えるようにすべき・・労働能力も一種の商品としてみれば、一定の能力に応じて何人であろうとも同じ待遇を受けるべきです。
日本や先進国では、労働対価と社会保障分が混在しているから右翼から外国人排斥の不満が出るし、外国人労働者が自分の提供する労働以上の対価を受けるメリットがあって、ドンドン出稼ぎに来る圧力になります。
労働対価と社会保障分の峻別をして社会保障部分は国民だけしか受けられないとすれば、自国で働くのとと同じ賃金しか繰れないのでは、出稼ぎに来るメリットが縮小するし右翼の不満が起きません。

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