07/19/10

(1)みことのり=詔

ただし、「みことのり」を、漢字的には詔勅の詔に当てるのが普通です。
「みことのり」と言うときは天皇の日常的会話ではなく、公式発言・・どちらかと言えば法規範的意味を含む場合の用法ですから「詔」の漢字を当てるのではなく、規範を意味する漢字にすべきです。
「詔」は、規則・規範系の漢字ではなく召し出して告げることですから、どちらかと言えば相手が特定される発言形式を意味する漢字です。
(規範は特定人相手ではなく、国民全般に対する効果・・対世効を前提にしています)
我が国の「みことのり」は、天皇(皇帝)の発する公式言葉・・規範的効力のある発言と言う意味・・特に明治18年以降は詔書形式になったのですから、特定人に向けた発言にこの漢字を当てるのは少しずれているように思われます。
ただし、この後に書くように、我が国では、直接表示が憚られる習慣があって伝聞形式で布告されて行くので、召し出した特定人にだけ発言する「詔」の漢字が妥当していたとも言えます。
召し出されて聞いた特定人(太政大臣や女房)が、「・・・・のとおり仰せられた」(女房奉書)と広めて行く形式です。
江戸時代でも側用人等が将軍の意向を代弁して行く形式でしたので、側近が権勢を振るいやすい仕組みだったのです。
以上のわが国の慣習を前提にすると「ミコトノリ」に詔を当てていたのはあっていましたが、ミコトノリに関する形式が、明治18年以降伝聞ではなく直接天皇が署名する文書形式に決まってからは、「ミコトノリ」は国民全般に布告すべき文書・・法令以外に存在しなくなりました。
天皇は筆談しか出来ないのではなく、日常カイワは自由ですが化するべき「みことのり」は文書で示さねば「みことのり」ではなくなったのです。
この段階以降は、「ミコトノリ」を特定人宛の発言である「詔」に当の漢字てるのは実態にあわなくなったと言うべきです。
国民の特定人宛の発言・「詔」を文書化=不特定多数向けに
したものとして「詔書」としたのは自己矛盾になっています。
この時点で天皇のミコトノリを法令化する文書については、特定人宛の発言を意味する詔勅以外の漢字を創作すべきだったと思われます。
現在「ミコトノリ=詔勅」として流布しているのは明治18年以降の詔勅の用例ですので、漢字の意味に混乱があるので何となく意味不明になっている原因です。(少なくとも私の頭では・・・)

(2)ミコトノリ(伝聞)

ちなみにウイキペデイアによれば日本書記や古事記にも既に詔と勅の語があるそうですが、(万葉がなの時代にこの漢字が使われていたかについては、私は疑問に思っています) いずれも天皇の公式発言を意味する使用例のようです。
その後、中国から律令制が導入されたので、公式例としての詔書と勅書の制度が決められましたが、ウイキペデイアによれば書式が煩雑すぎて(全公卿の副署が必要)改元のようなときしか使われなくなって律令制の形骸化につれて後は勅旨は周知のように公家・武家伝奏や女房奉書や御沙汰書になって行ったらしいのです。
明治維新のときにも、明治14年の布達布告式以前は、主語不明の「被仰出」「御沙汰」により太政官が布告・布達・する形式で伝聞方式のまま、書式が一定していませんでした。
これまでこのコラムで何回も太政官布告や布達を紹介していますので、検索して見直してみて下さい)
例えば09/27/03「明治維新と学制改革(学制と教育令)5」で紹介した布告では「右之通被仰出候条(仰せいでされ候)・・」とあり伝聞形式です。
また明治14年までは、各省の長官(卿)がそれぞれ発していましたが、このときから太政官が布告することに決まった程度です。
それが1885年公文式(明治18年勅令第1号)により太政官が聞いたことを文書にするのではなく、天皇自身親署して太政官が副署する形式・・文書化が決まりました。
現在天皇の国事行為その他の文書に内閣総理大臣が連署または副署する形式の始まりです。古くは律令制導入時に全公卿の副署が要求されていたことを内閣総理大臣一人に簡略化したとも言えます。
このときから天皇が侍臣に語るのを聞いていた人(女房や太政官各省のカミ)が外部に発表する日本古来の形式=詔から、天皇自身の外向け文書・詔書になりました。
詔勅の歴史を(継受した律令から推測して)見ると、中国では当初から、公式文書・対外発表文であったのに対して、わが国ではその形式を律令制とともに導入したものの殆ど利用されずに女房奉書や「被仰出」「御沙汰」があったので「かくかくしかじか」と布告すると言う伝聞・間接的利用で行われていたことが分ります。
詔書形式は、煩雑すぎたので廃れたとウイキペデイアでは理解されているようですが、そうではなく、我が国では目上の人を指すのにあなた様とか官職や居住する場所名で言って、直に人の名を言うのを憚る慣習です。
その究極・・尊貴な存在である天皇を直接名前で記すことすらせずにお上とか「みかど」などと言うだけで、すべて婉曲的言い回しが普通ですが、最も高貴な天皇の発言をそのまま流布したり署名を求めることが憚られたから律令の形式が廃れたのでしょう。
いずれにせよ明治18年の勅令までは、天皇の声(みことのり)を直接聞けるのは召し出された太政官などに限られるので召し出して言う「詔」の漢字そのままの使用が正しかったことになります。
これが公文書の形式に変わった時点で、国民全部に向かって直接発する意味に変わったのですから、従来の特定人に向かって話す「詔」の漢字を別の法令・規範を意味する漢字に変えるべきだったと思います。
そもそも「詔書」と言う熟語自体(特定人に向かってぼそぼそと言う意味の漢字「詔」を対外的に闡明(法令の一種ですから公布)するための文書にしたのですから、「詔書」と言う熟語は矛盾していることになります。

 



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