01/17/06

律令制崩壊平安遷都格式発達令外官1)

桓武天皇は、単に長岡京や平安京へ都を移しただけでなく、これを期に従来とはかなり異質の統治体制を築こうとするものだったらしく、こうした政治的背景が有ったために反対論も熾烈になり、これが相良親王などの粛清につながったのでしょう。
これを律令制の再編成とする意見と、桓武期をもって律令制の終焉とする意見に分れるようです。
こうして、9世紀の前期から中期にかけて、律令制を再整備しようとする動きが活発となったと言われます。
ちなみに平安京に遷都した以後は、平安時代として、平和で何事もなかったような印象で習いますが、実際は大変な時代だったのです。
律令の修正法である格(きゃく)と律令格の施行細則である式(しき)が、大宝律令の施行以後、多く制定されていましたが、820年にそれらを集成した弘仁格式が編纂されたのがその一例です。
830年には、天長格式が撰修され、834年には令の官製逐条解説である『令義解』(りょうのぎげ)が施行されます。
これらは、律令制の実質を何とか維持していこうとする時代精神の表れだったでしょう。
しかし、いかに格式を定めても、社会実質が大宝律令制定の初めから乖離していたのですから、律令制の弛緩は時代を追うごとに進展していきます。(班田制の崩壊など)
もちろん、養老律令以来の二官八省の制なども制度だけ作ったものの、実際それに対応する仕事がないのですから、官名も格式(これは今風の表現です)序列をあらわすだけの空疎なものになっていたのです。
870年前後に貞観格式が編纂、頒布されるとともに、868年には、律令条文の多様な解釈を集成した私的律令解説本の『令集解』(りょうのしゅうげ)が惟宗直本により作られます。
皆さん延喜式と言う言葉をこれまで何回も聞いたことがあるでしょうが、この延喜式は、10世紀に制定されたのですが、律令体制の最後を飾る格式でした。
延喜式とは、「養老律令」の施行細則を集大成した法典で、延喜5 年(905)、藤原時平(は途中で死亡し、弟忠平が続けたともいわれます)ほか11名の委員によって編纂 されたもので、 三代格式(弘仁格式と貞観格式とこの延喜式の3格式です)のうち、ほぼ完全な形で 今日に伝えられているのは「延喜式」だけと言われています。
しかも規定の内容が微細な事柄に及ぶ点(例えば神社の細かなことまで書いているなど)でも史料価値、古代の状況が良く分かります。
律令制はこの時期にほぼ実態を失ってしまったので、この延喜式が最後となり、そのまま手付かずに(改正すらされず)明治まできたので、今に残っているのです。
この格式・・延喜式が、最後ですから後代のいろんな文書に・・例えば神社などに行くと「延喜式にも記載されている」など誇らしげな文章を良く見かけるのは、そのせいです。
12/11/05「律令体制5(唐王朝社会の安定と律令社会の崩壊1)」のコラムで、唐代に入って律令法が繰り返し制定されたのは、発展した結果でなく、衰退する制度を護ろうとしたものに過ぎないと、書きました。
日本でも800年代に入ると、改正法に当たる格式などが矢継ぎ早に制定されているのですが、同じ流れで読むべきでしょう。
そして、中国では、玄宗の開元律(737)を最後に、次は1367年 洪武帝の大明律令まで600年も制定されず、最後は清代の大清律例までないのですが、日本では矢継ぎ早の格式の制定の結果醍醐帝の延喜式(905年)を最後に明治まで律令系の法典は制定されないのですから、そうした意味でも同じような流れです。
醍醐帝を理想化しますが、最後のあがきをしただけともいえます。



関連ページリンク

Powered by msearch
稲垣法律事務所:コラム:検索

検索ベースはこちらから

 


コラムTOP

リンクを当コラムにはられる方はお読み下さい

©2002, 2003, 2004, 2005, 2006 稲垣法律事務所 ©弁護士 稲垣総一郎
Design / Maintained by Pear Computing LLC



ブログ
株式投資