12/11/05

律令体制5(唐王朝社会の安定律令社会の崩壊1)

大宗の貞観律(637年)に始り高宗、中宗ついで、睿宗、最後は玄宗の開元律(737)まで、わずかな間に矢継ぎ早に新たな律令法典が編纂されます。
開元律(737)を最後に、次は1367年 洪武帝の大明律令まで制定されず、最後は清代の大清律例となるのですから、唐代の制定数の異常さに驚くべきでしょう。
07/28/05「明治以降の刑事関係法の歴史1(清律1)」前後で何回も紹介して来ましたが、変転極まりないと思われている現代でも、わが国の刑法典(明治40年)や民法典(明治30年)は、まだ今でも大事に同じものを使っているのです。
国家の基本を定める大法典(しかも一つではなく、いくつもの法令の合体したものです)である律令が、100年の間に5回も6回も編纂しなおされたのをどう見るべきでしょうか?
不完全な制度の完成に向けて改正が行われ続けたと見るべきか、それとも、この異常な改正数は、律令制が時代にあわなくなったので、手直しの連続であったというべきかの問題です。
一般には唐の初期〜中期が律令制度の最盛期と言われています。
それなりに歴史学者の地道な調査研究成果があるのでしょうから、私如き門外漢(具体的な研究調査もせずに思いつきです)が、違った意見を言うのもおこがましいですが、いつものように思いつき論を展開しましょう。
唐は玄宗皇帝のころまでに文化面での最盛期に向かうので、一般には、法体系も完成に向かっていたと言う先入観で考えているのではないでしょうか?
文学者が歴史紹介の前面に出る弊害の一つです。
文化・・芸術の爛熟期は、政治制度の発展から見れば、少し遅れてくるのが歴史の常識ではないでしょうか?
すなわち、政治制度の矛盾が底流で激化し始めたころに、遅れて文化の花が咲くのです。
足利義昭の東山文化(銀閣寺)も西晋の竹林の七賢も、それぞれ時代状況がどうにもならないところで生れたのです。
金に滅ぼされる直前の宋の徽宗皇帝の絵画も同じでしょう。
綱吉の元禄文化も、徳川政権初期に確立された制度の矛盾が起きてきたところに生まれたものでした。
生類哀れみの令も、御犬様ばかりに関心がいきますが、法制度が時代に合わなくなっているのに対して、どうしてよいか分らずにヤミクモに作った法令の典型として評価できるでしょう。
(直後に吉宗の大改革が始ることは、01/28/04「江戸時代の相続制度 4(武家)(毒殺の流行)」前後のコラムで既に紹介しました。)



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