12/28/07
不在地主復活の亡霊2(地主発生の基礎2)
労働力や兵士供給源を求めて性急な・・あるいは安易な子沢山政策をとらずに、「農業よりは近代工業の労働者になる方がいいぞ!」と言うことで、旧来の農家に対して一家を挙げて炭鉱町あるいは国鉄労働者などへ、移転するような気の長い政策を取れば、農業人口が減少し、ひいては農業労働力不足下での農業のあり方をめぐって新たに効率的農業が工夫されていったでしょう。
他方で、近代工業の方でも農業との労働力の取り合いになれば、労働条件が過酷では誰も農業を捨ててまで来てくれませんから、工場労働者の地位向上にも役立ったのです。
戦後の高度成長期での、一家の柱による出稼ぎ農民の一般化は、まさにこの原理によるものでした。
要は経済は経済の自由競争に任せれば、明治以降の日本は健全な社会の変革が続いたはずでした。
そうは言っても当時の世界は弱肉強食の時代ですから、悠長なことをしていると植民地にされてしまうのですから、一刻も早い先進国へのキャッしアップのために、こうした王道を歩む暇もなく急速な外形的近代化・・生産力増強だけを目指したのは止むを得ない面もあったでしょう。
具体的には、明治政府は、子沢山政策によって労働力の供給過剰を先に演出したために、工場労働者の待遇も劣悪なままにとどまるし、(女工さんの悲惨な待遇もそうした背景で読み解くべきでしょう)残った農業従事者の生活条件もより劣悪に下がってしまったのです。
しかし、この政策は内部矛盾が激化する一方になるのですから、これをとどめるには子沢山政策は1世代だけで充分だったのですから、明治中期ころからは子沢山政策に歯止めをかけるべきだったのです。
これを怠って、敗戦時まで「生めよ増やせよ政策」を続行していたのは、愚か過ぎる政治家の集まりだったと言うのが私の持論です。
第2次世界大戦の原因は、日本の人口政策の失敗によるという意見を、11/05/06「人口政策と家督相続制度1」前後のコラムで連載しました。
明治当初の政策は緊急避難的に正しかったとしても、その緊急事態が通過した後には、人口政策を元に戻すと言う明確な意識がなかった・・・何もわからずに政治が動いていたと言うことでしょう。
話を明治の小作制発達の原因に戻しますと、競争優位な産業があって転出のために農地を手放すのではなく、単に生活の窮乏化に耐え切れずに・・借金の始末のために農地を手放しただけです。
こう言う場合転業の余地がなく、従来どおり農地にしがみつくしかなく、結果的に小作をさせてくれと言うことになります。
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