12/30/05
前々回までのコラムでは、縄文人と水稲耕作集団とは、住む場所が違うと書いて来ましたが、水稲集団同士で、先発と後発集団が出会えば、住むべき適地が基本的に同じですから、この時点で場所取りの争いが不可避になったのでしょう。
このように考えると、朝鮮半島からの渡来人の日本列島への移住は、既に水稲耕作集団のいる所への割り込みですから、かなりの摩擦があった可能性があります。
日本列島は、皆渡来人ばかりなのに、朝鮮半島からの渡来人だけが、歴史上「渡来人」として特別に呼ばれるのは、それだけの理由があることが分かります。
それまで争いの全くなかった日本列島で、初めて悶着を起こした集団だからこそ、この時の渡来人だけ、「渡来人」と言う特別な呼称が、未だに残っているのではないしょうか。
この場合も、初めから喧嘩したい集団はいませんから、渡来人も普通は先着集団のいないところ・・・・すなわち水耕栽培の条件の悪い所に・・・・先ずは棲みついたのでしょう。
渡来人は、鉄器の利用技術を有していたことから、自然の水溜り(谷津田など)を利用しなくとも、もう少し条件の悪い所でも、開拓(灌漑)することが出来たので、新しい勢力圏として次第に広がって行けたのだと思います。
ただし、渡来人が鉄器を利用すれば、その情報が直ぐに伝わりますから、その近くの先住民も便利なものだと気づき、一定期間の経過で鉄器を利用するようになっていったでしょう。
そのころの砂鉄からの製鉄法は、今ほど高度ではありませんから、やり方さえちょっと気づいて、砂鉄さえ取れれば、どの民族・集団でも真似できたでしょう。
初めは離れて住んでいた新旧両集団も、灌漑技術のおかげで、次第に周辺に耕作地を広げていきますから、一定の発展段階を経ると境界付近が双方での耕作適地になってきます。
そうなると、境界付近での争いが起こり、平和に棲み分けて暮らして来た日本列島で、初めて集団間の争い・・戦争がはじまったのは、このころかもしれません。
ちょうど灌漑技術の発達が、匈奴の楽園であった北辺への漢民族の進出を促し、漢帝国と匈奴の争いが頂点に達したのと同じでしょう。
これが、日本列島では国引きの話、大国主の命の国譲りの話になって、残っているのではないでしょうか。
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