12/30/05
12/23/05「水田と畠の違い(男女の立場の基礎)」のコラムで田の歴史を書いたように、日本に漢字が伝わったころには、日本では田と言えば水田を表すようになったことから、畑または畠は殆どなかったことが分ります。
日本列島では、そもそも小麦、大麦耕作の時代・・畑作中心生活の時代があったのかどうかさえ、今の所私は知りませんが、そうした時代があったとしても早い時期から、(漢字の伝わる前から)水稲耕作に淘汰されていたのでしょう。
ちなみに朝鮮半島では、まだ畑作時代に漢字が伝わったらしく、田と言えば中国同様に日本で言う所の畠・・・・白田を意味するようです。
朝鮮では、後から伝わった水田のことを表すのに、文字とおり水の下に田と言う漢字をあわせて造っているそうですから、(畠の漢字が田の上に白を置く代わりに田の上に水を重ねる漢字の造語です)ものの伝わった時期・歴史もこうしたことから分かるらしいのです。
朝鮮の方が早くから漢字が伝わっていたので(中国からの道筋としてみれば、それが普通でしょう)漢字伝来後に水稲が伝わったために造字されたことになるらしいです。
ただし、水稲栽培が日本より早かったのか、遅く伝わったのかについては、私は今の所知りません。
水稲栽培のルートから見れば、本来は南方からの海伝い(沖縄から九州に至る島嶼伝いの伝来です)の方が早いように思いますので、日本海方面から大和朝廷の先祖が渡来した当時は、既に南方経由の稲作民が住んでいたのでしょう。
前記のように朝鮮半島では、水田は別の漢字(水の下に田を加える)を使うのに対し、田と言えば水田を意味するわが国の用例から見れば、朝鮮半島経由の渡来人が日本列島に渡来したころには、既に先住民による水稲栽培時代になっていて先住民の水田があったものと思われます。
それまでの縄文人には行った先でいくらでも広がりがあったので、縄文人集団同士が場所取りのために争う必要がなかったでしょう。
ちなみに日本の集落と集落の間は、最近まで人里離れたさびしい場所・・・林とか山を挟んでいて、集落と集落が直接接する仕組みではありませんでしたから、境界争いは本質的に必要がないのです。(歌垣の慣習もこれによるのです)
(皆さんのふるさと・・・親の出たところを思い起こしてください。)
縄文人と弥生人の出会いも、前回までのコラムで書いたとおり、住む場所が違うので集団的争いをする必要はなかったでしょう。
関連ページリンク
©2002,
2003, 2004, 2005, 2006 稲垣法律事務所 ©弁護士 稲垣総一郎
Design
/ Maintained by Pear Computing LLC
