12/29/05

生活手段相違棲み分け6(漢楚興亡1)

五胡16国の時代から、さらにおよそ1000年も過ぎて、明を滅ぼした清朝の時代には、実質的には満州族も黄河流域の漢民族と同じ生活習慣になっていたのでしょう。
満州族と言いますが、この時代には、満州地域にすんでいる人というだけであって、生活手段・習慣が同じであれば、(同じ畑作・・灌漑農業・・・感化されていたのです)既に異民族・・・違った生活習慣の集団ではなくなっていたのです。
12/14/05「漢民族の広がり?4・東西移動から南北移動へ2」前後で連載しましたが、長江以南の南方民族にとっては、黄河流域から追われて南下した漢民族による支配の方が、(現在の政権も)異民族支配そのものでしょう・・・。
私の言いたいことは、歴史家や中国人の言う「異民族支配時代」と言う場合が、本来は気の合った者・・すなわち同一集団による支配)による支配であって、漢民族支配時代と言われるときの方が、本来は異民族支配であったのではないかと言うことです。
史上異民族支配のときの方が、漢民族や人民に優しかったと言われる理由が、そこにあるのではないでしょうか?
ついでの話ですが、漢楚の興亡で有名な項羽の言動では、彼は折角1度は天下を取りながらも、当時肥沃の地と言われていた「漢中」を棄てて、故郷の南方に帰ってしまったのが有名です。
この時の項羽の言った言葉として、以下の文章が残っています。     

「富貴不歸故郷?,如衣錦?夜行,誰知之者!」

「折角成功したのに、故郷に帰らないのは、立派な錦の縫い取りをした衣を着て、誰も見えない夜中に歩くようなものだ!」
と言ったとかで、有名な一節ですが、要は、政治家としての稚拙さを笑われているのです。
南方と黄河流域での文化、生活方式の差の重要性に気付かない文学者的理解では、あるいは、先祖代々漢中平野で生活してきた者(司馬遷)には、上記のような理解しかできなかったので、嘲笑するために作られた文書が残っただけでしょう。
要は、歴史文書と言うものは、史記なり18史略なりを書いた作者のレベルに規定されると言うことです。
しかし、私の解釈では、項羽の本心は以下のようなものだったでしょう。
長江流域で育った項羽にしてみれば、(付いて来た配下の将兵も含めて)生活習慣の全く違う、寒い乾燥地で住みつくのは耐えられなかったのでしょう。
食べるものも、時代遅れの畑作物しかなくて・・水稲社会を経験している南部の人にとってはまずく、且つ貧しかったでしょう。



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