12/28/05
戦争が生活領域をずばり広げることは滅多になくて、生活手段のまさる方が、次第に領域を広げて来たことを、書いてきました。
近代では、そこの天然資源(石炭・石油)自体に意味があるので、戦争して相手に勝てば、そこの先住民族を追い払っても、採掘さえ出来れば戦争した意味がある時代でした。
そこで近代以降の歴史では、戦争ばかりを重視するのです。
しかし、近代以前は、そこの人民こそが財産だったのですから、折角占領しても人民を追い払って誰もいない広い土地だけを占領していても何にもならなかったでしょう。
ですから、異民族間の興亡は、長い時間をかけて新しい生活手段を持った民族が徐々に浸透していき、民族の消長が決まるものだと思います。
06/28/05「千葉の歴史31(千葉県人とは19)」前後のコラムで、現在の千葉県の人口構成を書いて来ましたが、民族間の戦争があったのではなく、新しい生活手段を持った人々が順次住み着いて、生活手段の遅れた方が、いつの間にか背後に退いて行ってるに過ぎません。
これは東京の人口構成を見ても、(ビルのテナントも)その時代時代の有利な職についている人と経済弱者とが入れ替わっていく点は同じでしょう。
戦争の勝敗で(徳川から薩長藩閥政府へ)支配者の入れ替わりはあるでしょうが、民族の消長が決まることの方が、少ないのです。
戦争の結果、支配者が入れ替わる場合も同一民族間の戦争の場合が殆どで、異民族の支配者がそのまま居座る歴史の方が少ないのです。
マッカーサーは、直ぐにアメリカに帰りました。
中国で異民族支配と言われる清朝が長続きしたのは、黄河上流だけでなく下流域に掛けて、更には北部まで、中原以北の民はみんな畑作農耕社会になっていたからです。
近代で言うところの民族概念とは、前々回のコラムで書いたように生活習慣が同一の集団を言うとすれば、同じ乾燥地帯で、灌漑を利用して畑作を営む集団となれば、女真とか満州族と言う別の名称を有しているとしても、生活習慣や価値観も同一で、違和感がなくなっていた筈でしょう。
だからこそ、満州族も南下して、黄河流域に定着出来たのです。
農耕民族になる前の匈奴などは、ときに南下しても遊牧すべき土地ではないので、漢民族を懲らしめさえすればいいのであって、少しばかり略奪して直ぐ帰っていったのです。
ところが、時代が下ると次第に北辺の集団も農耕民族化していきますから、五胡16国となって定着するようになったのです。
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