12/27/05
民族の消長4(生活手段の相違と棲み分け3)(漢民族の場合2)
農業技術の改良によって、農耕民の居住地が広がり牧草適地を掘り返すようになると、遊牧から帰ってくると牧草地が耕されてしまって、草がなくなっているのです。
(遊牧適地を徐々に侵蝕された)遊牧民が怒って戦いになる構図は、アメリカインディアンと西部入植者・開拓民との関係同様です。
他方、耕作民も灌漑に失敗すれば、撤退するしかないのであって、兵の強弱で居住地域が決まるのではありません。
漢民族が李広利の勝利以来、途中のオアシスに屯田兵を駐屯させ、折角灌漑して屯田兵を養っていたのに、その後の水流の変化で、沙漠になってしまったのが、楼蘭がその1例です。
灌漑技術で居住域を拡大していた特徴から、黄河上流域集団が漢民族と呼ばれるようになったことを、12/09/05「漢民族と灌漑1」のコラムで紹介しました。
異民族支配と言われる北魏など北朝政権は、黄河流域に住み着いた民族は漢化・・・すなわち農耕民族化していったのですから、その時点で同じ漢民族(灌漑民族)になったと言うべきでしょう。
これに対し、亡命漢民族に占領された南朝の方は、黄河流域の畑作生活とはまったく違った水稲農耕社会でしたから、灌漑農法=乾燥地農業に関係がなかったのですから、彼らこそ畑作民による異民族支配を受けた民族なのです。
ただし、正確に書きますと、北部の灌漑技術を南部の自然的水稲農法に応用した結果、農業用地が広がり、生産性も飛躍的に上がったので、南朝以降南部の中国が発達するようになったらしいのです。
しかしながら、生産内容と民族的文化の性質が一致するはずと言う私の考えでは、黄河流域の乾燥地の農業を背景にする思想と南部の湿潤農法を背景にするのとでは、生まれてくる文化も大いに違っていたはずですから、実質的には異民族(異文化)支配になったと言うわけです。
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