12/26/05

民族消長3(生活手段相違棲み分け2)(漢民族の場合1)

農耕民の場合は、通商路確保・・利権確保の要請は殆どないのですから、一族の誰かが顔役になるのは許せるとしても、無関係なものが支配者に納まるのは、納得ができません。
支配集団の入れ替わりは、後発集団が先発集団の使わない所に住み着き、じわじわと居住地域を広げていった結果と見るべきでしょう。
漢民族と匈奴など遊牧民との争いについて、その1例として考えてみましょう。
最初はアフリカからの人類移動の過程で、先ずは遊牧適地の範囲内で広大な地域を舞台に移動を繰り返す一種の定着をはじめたものでしょう。
そのうち一方の縁辺では、森林の狩人になっていった集団(シベリヤのツングース族など)と黄河流域まで達した集団の内、農耕を身につけた集団に分化していきます。
以前、12/14/05「海路の発達と中央アジア交易の縮小2(乾燥地帯から湿潤地帯への移動)」などで人類の移動の歴史を書きましたが、人類は乾燥地域から湿潤地域へ順次適応を遂げていったものですが、元々農耕生活は、ステップ地帯よりも水が少し多めに必要となる地域です。
これらの集団は、多分何万年あるいは何千年もの間、それぞれ得意分野が違うので(当時は、自然に規定される度合いが大きいので)住む場所が違った筈ですから、うまく棲み分けていたのでしょう。
今のように科学技術が発達しても、漁師は信州の山の中には住みません。
(そのうち山の中でも鯨が取れる時代が来るのかな?)
この集団の内、自然の水だけでなく・・・・灌漑技術を手に入れた集団が誕生すると、生活圏が広がりますが、その一部は、ステップ地帯との境い目に逆進出できるようになります。
これが、黄土高原地帯に住み着いた漢民族と言うものでしょう。
漢民族は、天水だけでなく、灌漑水を利用する集団ですから、本質的に遊牧民族との境界域の農耕民族だったと言えます。
時代の進行により灌漑技術が進歩してきますと、漢民族が次第に耕作地(灌漑地)をステップの周辺まで逆拡大したことによって紛争が生じたのです。
日本でも水稲民族の技術向上で、戦後は東北から北海道にまで水田耕作地が拡大されているのを思い起こしてもいいでしょう。
似たように森からステップに逆進出したのは、アルタイ山脈の奥地から・ジュンガリア盆地さらには天山北麓を経て中央アジアに進出して来た突厥・古代トルコ族ではないでしょうか。



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