12/25/05

大和朝廷ルーツ1(九州人東国人親近性1)

クリスマス特番から防人の話に戻ります。
まだ正確な知識がありませんが、私は、縄文時代人がそのまま弥生化したのではなく、日本海側から畿内中国地方にかけて、弥生人(朝鮮系)或いは製鉄技術のある集団が渡来して住み着いて広がったものだと思っています。
日本海側の列島の真ん中に(北陸から出雲に掛けて)広がって住み着き、次第に山を越えて瀬戸内から機内に進出したのが、大和朝廷の基礎民族ではなかったか?と思っているのです。
これに対し、それより前から北部九州に上陸し、生活圏を広げていた集団(民族?)は同じく瀬戸内海沿いに東上していたのでしょう。
その勢力は今の広島県と岡山県の境目あたりで、山越えしてきた日本海側から進んで来た勢力に行く手をさえぎられたのではないでしょうか?
あるいは、先に進出していたものの、後から来た日本海側勢力にこの地域に割り込まれ、次第に左右に押しわけられてしまったのかもしれません。
以上の私の考えによれば、日本海側から遅れて移住して来た民族(当時は単なる集団でしょう)によって、次第に左右に押しのけられた行った先住民・・九州人と東国人は、「感じがいい」かどうかと言う好みの問題だけではなく、民族的親近感があったのは当然です。
私の知っている限りでは、(20年以上前に、広島市から三段峡まで遡ったことがありますが・・・)地形上、出雲国から直線的に広島地方に出る山越えは無理があったと思うのです。
古代にも、今の伯備線のように倉敷方面に斜めに出て行くルートがとられたので、出口としての吉備の国が先ず栄えたのでしょう。
日本海側に住み着いた集団は、製鉄技術を持ち合わせていたのが、大きな特徴であったでしょう。
(彼らの住み着いた地域は、大方砂鉄の産地でもあったのが特徴です)
今でも備前焼などは、鉄分が多いのが特徴ですから、詳しくは知りませんが古代には、かなり砂鉄が取れた可能性があります。
話が更に飛びますが、川崎製鉄所が立地した水島製鉄工場などもそうした歴史の上にあるのかもしれません。
関東では鹿島に住友金属工業が進出しましたが、鹿島〜香取の地は砂鉄の産地として古代から知られ、ここを地盤とする中臣氏(後の藤原)が勢力を伸ばしたことでも有名です。
今から考えると、古代には畿内から遠く離れた辺鄙な鹿島や香取の地に大きな神社が、何故2つもくっついて祭られたのか疑問ですが、この製鉄地との関連で見れば合点が行くのです。



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