12/20/05

弁護士先祖?((公事宿亭主)1

争訟ごとを公事と言い、刑事を吟味筋、民事系を出入筋と言っていたことについては、02/19/04
「江戸時代の裁判1(出入筋と吟味筋)与力 同心」のコラムで紹介しました。
鎌倉時代よりも江戸時代には、天領や大名家や寺領が入り組んでいたので、ホンの目と鼻の先の人との争いでも領主が違うと言う理由だけで、幕府に管轄権があったのです。
徳川時代には飛び地だらけでしたから、大変です。
領主裁判権があったと言っても、外様の大大名は別として小さな大名家ではあちこちに飛び地があったので、実際は徳川家が裁判権を握っていたのです。
紀伊徳川家の地図を、中学時代に見たことがありますが、55万石とは言っても、紀ノ川平野の中は、根来寺や高野山領の領地が小さな部落単位で細かく入りこみ、その間を縫って徳川家の領地があるのに驚いたことがあります。
これでは、日本中からホンの一寸した争いごとでも、江戸に出て争わねばならなかったのですから大変でした。
公事ごとを理由に江戸に出て来て、公事(訴訟)は公事宿の亭主に任せキリにして、江戸で遊ぶのを楽しみにしていた事例が報告されています。
鎌倉時代ほど裁判の長さに対する怨嗟の声が少ないのは、江戸に出て楽しむ方法があったからでした。
(鎌倉では五山参りくらいですから、楽しみは殆どありません。)
そこへ行くと、江戸は消費社会でしたから、そりゃ、遊び出したらきりがなかったでしょう。
幕府では繰り返し「本人でなければならない」と言う禁令を出していましたが、本人が病気なら弟など親戚が出てもいいということだったので、(本人は吉原などで、遊んでいたかもしれませんが・・・勿論公式記録には残りません)公事宿の亭主が繰り返し、いろんな人の兄弟として出てくる始末でした。
実際は現場の役人としては、毎回、いろんな人の兄弟として同じ人間が来るのですから顔見知りになりますので、分らないはずがないのです。
しかし、素人の言い分そのままだと、整理がつかずに困っていたから、事実上重宝にしていたから、こう言う人種が発達したのです。
具体的な事実関係は本人でなければよく分らないでしょうが、その事実関係を書類に表現するのは、現在の人でも、苦手ですので弁護士が文書を作っているのです。
昔の方が文章力の差が大きかったでしょうから、なお更、慣れた人が本人から聞き取って主張の整理などする必要があったのです。



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