12/18/05

白村江敗戦人的被害

ある会戦で、戦闘参加者のうち1〜2割も戦死者が出れば、壊滅的打撃と言われるほどですから、
     「みんな帰ってこなかった」
と言う事態は、遥な海の彼方を眺めて茫然自失というほどのショックだったでしょう。
これほどの人的被害の発生は、太平洋戦争での玉砕戦までなかったのですから、白村江の敗戦が、わが国に与えた精神的影響の深さは大変なものであったことが分るでしょう。
戦争の中でも海戦の場合は、舟が沈めば全員死亡ですから、丸ごと多数の戦死者が出る宿命です。
イギリスとアルゼンチンのフォークランド戦争の際に、イギリスのフリゲート艦だったかが、たった一発のミサイルの命中で撃沈されたことがありました。
この時は、周りに味方の海軍艦艇が一杯いて、イギリス軍の敗戦状況でなかった例外事故みたいなものだったのにその被害者が、数千人に及んだので驚いたことがあります。
その一点に限れば、中国の戦乱続きの結果、人口が激減して耕作者が不足していたのと似ています。
他方、白村江の敗戦は、国内戦ではなかったので、女子供の死者がなく、北九州方面では男日照りとなったのです。
ただし、中国では内戦でしたので、女子供に至るまで人口が減ってしまったばかりか、耕地の管理者(今でいえば所有者)自体がいなくなっていて(逃散です・・)国民が流浪の民に化していたのが大違いです。
ここでは、逃げ回っていた国民の定着化が(国民が安心して耕作に従事できるようにするのが)課題だったのです。
これに対し、日本では農民が逃げてしまって耕作する人が誰もいなくなったのではなく、戦死した家族・・・一族はそのまま耕作していたのですから大違いです。
そこへ全国から防人として男だけが集められ、そこの耕地を与えられたことを12月10日のコラムで書きましたが、唐や新羅は攻めてこなかったので誰も死にません。
防人の徴兵とはいうものの、耕作・・・特に水田は、男だけでは出来ませんので、当然のことながら、九州方面の男日照りの解消・・・・・現地での結婚相手の確保目的で強制移住させたものでしょう。
こうして、九州に集められた兵士はそのまま居着いたので、(男日照りでしたから地元民との悶着もなく、むしろ歓迎されたのでしょう。)そのうち余った土地がなくなった時点で、全国からの応援が不要になってしまっただろうと言うわけです。
勿論、私の想像による歴史観ですので、そのつもりで御読みください。



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