12/18/05
また、大宝律令制定直後に平城京遷都(710年)されているなど考えあわせると、大宝律令の制定は、大事業であると同時に、国家としての本格的体裁が整ったことの宣言でもあったのです。
明治維新当時、欧米から、まともな国として認めてもらうために西洋系法制の整備に必死だったのを想い起こしてもいいでしょう。
これまで何回も書いていますが、民法が出来たのが明治30年、刑法が出来たのが明治40年で、(これが今も使われている現行法ですが、)これだけ時間がかかったのです。
ところが、日本の律令制(の骨格たる班田収受法)の最盛期は、8世紀初頭から8世紀中期・後期ごろまでの短期間とされているのです。
そのうえ、この最盛期においてすら、律令制がどの程度まで徹底して施行されていたかについては議論が分かれているらしいのです。
律令の規定がかなりの程度で、徹底実施されていたとする説や、依然として慣習法による統治もなされていたとする説など、様々な意見があるようですが、私は素人ですが、名目だけの施行だったのではないかと想像しています。
中国のように戦乱で全般的に人口が6分の一に減ったわけでもないのに、国家が一斉に支給する誰も耕さなくなって放置された耕地など存在するはずがありません。
口分田を国民全部に配るためには、現に耕している個人(当時個人所有でなかったと思うので、その辺は別途考察します)或いは集団から農地を取り上げて、それから配る必要があります。
それに、仮に耕地の取り上げが可能としても、一旦取り上げてから次に分配するまでのタイムラグの関係で、耕作者人口の2〜3割超過する余分の耕地が存在していなければ、物理的に不可能です。
ただし、日本では、12/10/05「律令体制3(徴兵制の始まり1)」で紹介したように、白村江の敗戦で九州方面の男子が壊滅的に死んでしまったのです。
歴史物語では、白村江の敗戦という文字だけ書きますが、実際の所出征した兵士が帰ってこなかったのが大ショックだったのです。
「帰ってこなかった」と言う簡単な記述ほど真に迫った状況をあらわしているものはありません。
戦争の結果、人が死ぬのは普通ですが、戦争の記述では、勝った方が敵のクビをいくつ取ったと書き残しますが、負けた方は、失った領土の被害を嘆き、失地回復・・復讐心を煽るのが普通ですが、人的人的被害はナーバスなものですから、これを書くのは例外です。
2万か3万か数字は忘れましたが、わざわざ「帰って来なかった」ことだけが簡単に書かれているのですから、みんな帰ってこなかったというのは、当時の日本ではよほどのショックだったので、記述者も書かざるを得なかったのでしょう。
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