12/16/05

東西移動から南北移動へ4(ペルシャ影響

亡命貴族による文化影響としてみれば、ササン朝ペルシャ滅亡(226年〜651年)に際し、王族その他が中国にたくさん亡命してきたことが想起されます。
それまでの中国文化は言うならば、「華」が全くなくて、御世辞にも芸術的にすぐれた国・民族とはいえないものでした。
中国の絹織物のセンスがあまりひどいので、シルクロード経由で入手した古代ペルシャとか地中海世界では、わざわざ反物をほどいて糸に戻して、織り直す大変な労力が必要であったことを、09/03/05「中国の発展形態の異常性4(ペルシャの影響4)」のコラムで紹介しました。
こんなひどいセンスの民族である漢人の国なのに、盛唐でいきなり爆発的に華やかな文化が花開いたのは、ペルシャの影響があったればこそと言えるでしょう。
影響どころではなく、李白はぺルシャ系だったという人もいますし、755年乱を起こした安録山は、いわゆる碧眼の西域人であったことは争いがないでしょう。
このようにペルシャ系は、文化、軍事その他政府中枢に食い込む状態だったのです。
勿論いろいろな文物は、ペルシャ風が大流行であったことも知られています。
もっとも顕著に表れる美人の基準も、楊貴妃に知られるようにペルシャ風美人でしたし、衣装や小道具もみんなペルシャ風がもてはやされたのです。
ちなみに、唐の最盛期であった玄宗皇帝の生没年は、685〜762年で、彼の在位期間は、712〜756年です。(ペルシャ滅亡時期・・651年と比べてください。)
このペルシャの文物・美的センスは、以後の中国文明に多大な影響を残すのです。
唐の末期の黄巣の乱では、長安で何万人というペルシャ人が虐殺される事件を起こしていますが、広州では10万人単位だとも言われます。
それほど多くのペルシャ人が、駐在していたのです。
この蛮行に恐れをなしたペルシャ人は、以後直接貿易から手を引き、中継貿易に転じたらしいです。
ついでですが、09/03/0「中国の発展形態の異常性3(ペルシャの影響3)ダウ船」でも紹介しましたが、唐代末にいたると、アラビアのダウ船の発明以後ですから、陸路だけでなく、海路交易も平行していたことが、この大虐殺で分ります。
このようにペルシャの亡命貴族がいたり、ペルシャ商人もいてその影響を受けたからと言って、今の中国はペルシャ民族だと思う人が誰もいないでしょう。
しかし、、南部に逃れた僅かな漢人が、長い間に南部中国を支配して漢人の国にしてしまったのですから凄い話です。



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