12/16/05

漢民族広がり?5・東西移動から南北移動へ3

話がまたずれましたが、漢民族の東西から南北への移動の話に戻しましょう。
北部に出来た北朝政権は、概ね異民族支配といわれ、南朝政権或いは南部から興った政権は漢民族政権といわれるようになります。
中華民国政権は武昌蜂起(辛亥革命の勃発です)などで知られるように、長江流域で始まり、南京に首都を置いたものですし、現政権(中華人民共和国)の創立者毛沢東は、同じく湖南省出身で、共産党創立大会は上海で行われているのです。
しかし私に言わせれば、異民族支配と言われる場合や北朝系の方が、古代からの漢民族的思考や行動様式を受け継いだ民族のようにみえます。
五胡16国以来繰り返し異民族支配にあった黄河流域の民は、元々乾燥地帯民族同士ですから、占領されても違和感がなかったと思います。 
例えば、前漢が獲得していた河西通廊地帯には、五胡16国時代に前涼後涼とか西涼とか何とか涼と言う名の国だけでも、4〜五国入れ替わります。
しかし、この辺は(岐連山脈北麓)、元はと言えば匈奴支配地帯(その前は月氏の支配地で、月氏が匈奴に追われて、はるか西方で大月氏としてトルキスタン地方で建国するのです)を漢が占領していただけですから、そこの住民から見れば、むしろ失地回復しただけで違和感がなかったでしょう。
むしろ漢民族政権と言われる南朝系の方が古代からの漢民族とは違って南方系思考・行動形式になった国民性のような気がしますので、実はいつの間にか入れ替わっていたのです。
そもそも南船北馬と言われるように、南部では水郷地帯が原則で乾燥地帯にちょいちょいと灌漑するような土地ではありません。
乾燥地の灌漑民族が、湿潤地の南方に移住しても従来の農耕技術は役に立たなかったでしょうが、北方から亡命するのは農民ではなく一握りのエリートですから、関係がなかったのでしょう。



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