12/15/05
詩の題名から話が横に行ってしまいましたが、次に詩の中身には入っていきましょう。
1封とは、論仏骨表と言う論文で、憲宗の仏教崇拝に対し、厳しく批判した文書のことです。
朝(あした)に九重の天・・・すなわち宮廷の皇帝に論文を提出して、たちまち夕べには(そんなことは、ないでしょうから比喩の意味です)8000里の彼方の潮州に貶せられることになったというのです。
九重の天・・・とは、皇帝のいる宮廷をあらわすことについては、01/14/04「長恨歌2」で説明しました。
潮州とは今の広東省のことらしいです。いかにも海に近いところという語感です。
雲横秦嶺家何在,(雲に秦嶺に横たわり家いずくにある!)とは、12/12/05・・2「漢民族の広がり・・南北統一2」で紹介した秦嶺山脈のことで、雲がかかっていて懐かしい秦嶺山脈も見えなくなったと嘆いているのです。
最後の句を見てください。
「好收吾骨瘴江邊」。
「送ってくれた意気や良し、私を瘴気立ち込める川のほとりに埋めよ」
と言うのです。
今の広東省の人が聞いたら怒るでしょう。
広東には瘴気なんか立ち込めてはいませんし、それどころか後代になると「職は広東にあり」といわれるほど、地大にして食豊かな地の代表となるのですが、唐代にはまだ瘴気立ち込める人の住むような場所ではないという評価だったのがわかるでしょう。
論仏骨表の提出は814年のことですが、黄河文明発祥から何千年と下っても、まだその程度の認識だったのです。
この人たちの認識が誤っていたと言うのではなく、そのころの漢人は、まだ、湿気の多いところの気候にまだ適応できていなかっただけの話でしょう。
このころは、まだ文化の輸入は西域からの交易に頼っていたことは、西遊記でおなじみの三蔵法師のインド旅行でもわかる所です。
近代に於けるアメリカ植民の例でも分るように、イギリスなど北方系は北アメリカに、南方系の民族は中南米に住み付いた様に、「暖くて物産が豊かならばいいだろう」と単純には行かず、長年住み慣れた場所と同じ気候風土でなければ、移住できないのが普通です。
(日本人移民も、テキサスなどの乾燥地帯にはあまり行きません)
ですから、古代には航海術が遅れていたという点だけでなく、そもそも湿地帯は危険(健康管理上のことです)だとして、人が最初は住み着かなかったから、海路の交易(舟の発達も)が後回しになったといえるでしょう。
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