12/12/05

漢民族広がり・・南北統一

中国古代社会は黄河流域で栄えたことは周知のとおりですが、唐朝のころまで秦嶺山脈以北、河で言えば淮河以北と言う所までが基本的な版図(内地感覚)で、そこを越えると辺境に流されると言うイメージで捉えられていたのです。
流滴された政府高官の嘆き節には、秦嶺山脈が見えなくなる描写が多いのです。
実際には、戦国末期に楚が中原の争いに参画し、後漢末には魏呉蜀3国鼎立のうち、呉と蜀が長江流域政権でしたから、重心が次第に長江流域まで移ってきていたことが分るでしょう。
北部では五胡16国が南下して中原になだれ込み、南部からは長江流域筋の民族が北上して政争に参加するのですが、生活様式の違いから、南北に二分された形・・・南北朝時代になっていくのは自然の結果です。
日本の南北朝時代の呼称は、この語呂だけを利用したものであって、文化的生活実質の相違をに裏付けられたものではありません。
そして、これが本格的(経済面で)一体化したのが、隋の煬帝による運河の開鑿でしょうし、その結果の恩恵を受けたのが唐代以降の政権です。
それでも、政権が強力なうちは良いですが、弱体化すればすぐにこの矛盾が表面化して来るのです。
その後もこうした違いを無視できなくて、北宋が北方民族の金に滅ぼされて南宋に逃げてしまうように、その後も南北の違いはずっと尾を引いていくのです。
現在中国の問題点として、沿海部と内陸の経済格差が指摘されていますが、むしろ南北問題こそが歴史上も現在も、大きな亀裂の危険をはらんでいると理解した方がよいでしょう。
南部は沿海部にかぎらず、長江流域および珠江の上流にいたるまで経済の一体化は容易でしょうが、少しくらい時間をかけても北西部乾燥地域の生活習慣差の解消・・・一つの民族或いは国家として融合するのはかなりの無理があるでしょう。



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