12/12/05
安史の乱について、文学者の理解では、玄宗皇帝は、政治に倦んで女色に溺れたことが原因かの如く描きますので、日本人はみんな玄宗は、傾国の美女に入れ揚げた結果、国が乱れたと誤解してしまうのです。
長恨歌の冒頭を紹介しておきましょう。
漢皇重色思傾国、御宇多年求不得。
しかし、玄宗は女色の溺れたわけでもないとしても、政治に倦んでしまったのは事実ですが、それはいくら努力してもどうにもならなかった結果であって、政治改革がどうにもならなくなって、道教などに逃避したに過ぎないと理解すべきでしょう。
能力の限界を感じたこの時点で引退すればよかったのです。
これは足利義昭も、フランス革命時のルイ16世も政治から逃避していた点では同様です。
吉宗は、現在社会システムにつながるいろいろな改革をしている名君ですが、彼はそれまでに発生していた矛盾の解決には成功したのですが、彼在位中に発展した市場経済の波に翻弄されたのも彼でした。
吉宗は、米将軍と言われるほど奮闘したのですが、結局米相場(市場経済)に負けてしまったのですが、まだ市場経済が何たるかについて誰も知らない時代だったから仕方がなかったでしょう。
それでも政治を投げ出さなかったところが、えらかったのでしょう。
その後を継いだ(と言っても側用人でしかないのですが)田沼意次が、無理な規制をせずに市場経済主義でインフレ経済をやったので、管理の大好きな現在官僚からは鬼っ子扱いされています。(文学者と言うのは、そう言う強い者の尻馬にのって書くのが多いので、結果的に彼は悪役として描かれます。)
市場に任せる田沼の政策があってこそ、その次の権力者松平定信のデフレ政策も生きるのですし、田沼のデフレ政策がなく緊縮政策(管理政策)一辺倒であれば、徳川政権はもっと早く滅んでいたでしょう。
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