12/12/05

律令体制8(漢民族広がり南北問題1)

後漢末以降500年にわたる戦乱は、主として中国北部で行われてきたので、人口減(耕作地放棄)も北部が中心でした。
西晋滅亡後の五胡16国と言われる異民族支配の攻防も、北部中国中心の話で、南朝は比較的落ち着いていたのです。
この厳格な耕地の配給体制や、これに伴う人民の管理体制は、元々北朝で発達したものですから、隋が天下統一したからと言って、豊かな中国南部までいっせいに実行できていたのかすら疑問があるくらいです。
やっとのことで、南部でも実施できたと思ったら、直ぐに唐王朝の府兵制や均田制も南部から崩れて行くのです。
戦乱の影響が少なく、人口が元々大して減っていなかった南部では、配給出来るような誰も耕さないような空いた耕地もなく、新田開発の需要の方が大きかったでしょう。
玄宗の法典制定後、次の制定まで約600年もあいているのは、立派な法が出来たからその後改正がなかったのではなく、その後は、改正を諦めて日本同様に律令体制は形骸化していったと読むべきでしょう。
玄宗の律令制定は 最後の努力・・・あがきをしたものと言うべきであり、法をいじくってもどうにもならなくなっていたのです。
安録山、史思明の乱は、時代の矛盾を背負って起こるべくして起こったともいえるのです。
頂点があれば後は下るしかないのですから、戦乱期に妥当した政治制度をそのまま維持しようとするのは無理があったでしょう。
それに中国世界は従来黄河流域・・北部で発達してきたのですが、隋唐以降、南北統一王朝になった点も大きな変化でした。
南北、すなわち乾燥地域の秩序意識と湿潤地域では行動様式も価値観も違うのですから、その価値観の融合一体化を図る(統一法で強制する)のは、至難の業だった筈です。



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