12/11/05
荒廃しきった社会を前提に隋で律令制度が完成した後は、唐王朝の安定した社会の出現によって、耕し手のいなくなった荒れた耕地が減少し、律令制・・公地公民制が次第に維持できなくなっていったと読むべきだと思うのです。
徳川体制が確立すると、却って初期に幅を利かした武断派の出る幕がなくなったのと同じです。
律令の最初は、267年に西晋で制定された泰始律令であると言われていることを、12月8日のコラムで紹介しました。
勿論そのような有名な法典ができるには、その前提になる未完成・・・不完全な法が先行しているのが普通です。
学者によっては、どの時点が最初の法と言うかの定義問題があるのでしょうが、ここでは一応の意見で紹介しているだけです。
いずれにせよ267年に既にある程度名のある(ほぼ完成した)法が、出来上がっていて、その後隋の開皇律令(581年)までには、300年あまりにわたる改訂の歴史があったのです。
隋の文帝によって作られた開皇律令は、何百年にわたる試行錯誤・・制度の進化を経た結果の完成型だったと言うべきでしょう。
要するに隋の制度が頂点だったのです。
法と言うものは数学の理論体系と違って、完璧な制度が出来たらそれで変える必要がないというものではなく、法体系を支える社会実質が変わるとそれに合わせて、法も変えていかねばならないのです。
またその逆に、西晋のころにようやくある程度体系的に一貫した法が出来たものの、その後300年あまりも、試行錯誤・・改正を繰り返して、隋による天下統一でようやく完成したのは、それまで法理論が発達していなかったからではありません。
(頭が悪かったと言うのではありません。)
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