12/10/05

律令体制4(徴兵制始まり2・・防人

ちなみに日本の防人制度は、白村の江で敗戦した翌年の664年に、天智天皇がはじめたものです。
防人については、1戸あたり22歳以上の一人の男子を兵役に出す義務が定められたとも言われますが、時期によって制度が違うので一概には言えません。
この防人が、どうやって食べていたかと言うと、任地に着くとまとまった人数に対して空閑地をあてがって、そこを農地開拓させて、自給自足させていたのです。
一朝有事の際には、兵器を持って戦うと言う仕組みで、中国の屯田兵そのままでした。
最初は全国からの徴兵でしたが、これが北九州地方の人口が増えてくると、東国に限り、更には九州だけから徴兵するようになって行き、最後は廃止されてしまうのです。
天智天皇は平行して律令制の成立に向けて努力し、断片的ではあるものの一応の律令として制定したのが、近江律令(668年)と言われます。
この律令は、本当にあったのかどうかさえまだ推定の域を出ないものらしいですが、いずれにせよ徴兵の必要性の方が先にあったことが分るでしょう。
ところで九州地方の人口回復につれて、次第に屯田兵式の防人が廃止になっていったことからも分るように、人口と耕地の均衡が回復すると、こうした制度は無理がでてきます。
中国の律令制は、一般的に8〜9世紀にかけて実質崩壊し、後は形骸化したといわれている原因がそこにあると思うのです。
共産主義制度は、既存の権利を公平な分配するには向いていますが、積極的な工夫や増産には向きません。
社会が安定した唐代には、人口が増える一方ですから配給する公地が不足してきます。
律令制維持の社会実質が失われてきつつあったことから、律令体制の崩壊が始ったのです。



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