12/09/05

漢民族灌漑2(タクラマカン沙漠古代文明あったのか?)

要するに、この間(イラク・イラン〜トルキスタンやタクラマカン砂漠〜ゴビ砂漠など)にちょっとした灌漑で(今のように大規模な土木工事はできませんので・・・)耕作できるちょうど良い程度の水加減の場所が、黄河上流域しかなかっただけと思います。
ただし、タクラマカン砂漠では、おお昔は大きな湖があったともいわれますので、(ロブノール湖がその最後の姿らしいです)黄河に行き着く前に、この辺でもっと古い文明が出来ていたのかもしれません。
何万年にも亘って次第に干上がって、今の砂漠になってしまったので、その湖周辺で生れた古代文明が、深い深い砂の底に埋もれているだけかもしれません。
楼蘭の場合は、偶然にも家の跡の柱や、ストウパ(仏塔)の半ば風触された痕がなお砂上に顔を出していたから、探検家へデインが偶然に発見できたに過ぎないのです。
楼蘭の遺跡は紀元前直前のものですが、何万年という悠久の歴史を知ろうとすれば、しかもその間に水分不足からみんな砂地になってしまったのですから、何十メートルも掘り下げなければ分らないでしょう。
古代には何の文献資料もないのですから、どこを掘ればいいのか見当もつきません。
普通は断層などから発見できるのですが、一面の砂地で、しかも風の具合で一夜に砂山の形が変わるとまで言われる砂の深いこの地域では、何時のことやらと言う所です。
この順序で民族移動が続いたのですから、先にメソポタミヤ文明が生れるのです。
私の考えでは、メソポタミヤに続いて中央アジアが本来先進地域でしたが、(発掘されていないだけでしょう)何万年の間に乾燥しすぎて退化してしまい、その線香花火の先っぽのような黄河流域の文化が生き残ったのでしょう。
そして黄河流域で高度に発達した灌漑技術を引っさげて、中央アジアへ逆戻り進出したのが紀元前後の漢王朝だったのではないでしょうか?
中央アジア諸国?住民にとっては、中国人を灌漑技術集団として理解したのと、たまたま劉邦が最初に地盤を持ったのが漢中平野だったことから、漢民族と言う呼称が定着したのではないかと言うのが、今回の私の独断偏見です。
もっともこの漢中の地こそ、灌漑の行き渡った古代の最高の地域だったからこそ、争奪の対象となり、そのようにいわれたのでしょう。



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