12/09/05
灌漑と言えば、日本の水田のように水を満々と引くとか水浸しのイメージですが、こう言う世界では、元々灌漑がなくとも一寸した工夫で直ぐに水稲栽培が出来るし、稲作以前の農作物も簡単に出来るのです。
新潟平野の江戸時代の情景について司馬遼太郎の「街道を行く」で描写がありますが、そこは灌漑どころか水が海のようにあって、そこに田舟で移動しながら、稲を植えて行くという次第です。
古代には水稲栽培が発達していなかった上に、現在でも黄河流域で水田社会ではないのですからこの地域での灌漑は乾燥地・・雨の少ない地域での水遣り程度の灌漑であったことが分るでしょう。
何故中国で灌漑が発達したかと言えば、日本や中国南部のように水が豊富でない黄河流域では、灌漑をして水を引いてこそ古代の畑作が出来たのです。
乾燥した水の少ない地域での農業・畑作にこそ、灌漑技術が必須だったのです。
黄河流域で文明が生れたのは、西域の乾燥地帯経由の行き着く先の東端が黄河上流域だった(そこは灌漑できるのに適した程度の水があった)と言うだけの話しでしょう。
話が飛躍しますが、人類はアフリカからユーラシア大陸へ移動するのですが、先ず当然ですが中東地域を通過します。
これが中央アジア〜西域を経て中国方面にきて人類が更に拡散していったのは誰でもご存知のとおりです。
アフリカからユーラシア大陸入り口に先ず住み着いた場所が、アフリカの原住民の住んでいた環境に似た半乾燥地帯であったヨルダン渓谷の上流域の遺跡であると言われる所以です。
それから大分経ってから、メソポタミヤの沖積平野に住むようになっていくのですから、今の感覚で先ず海岸線水辺、湿地帯から人が住み着くという発想が間違っているのです。
メソポタミヤの流域にまで下るのは、何万年だったか忘れましたが、その間に故郷であるアフリカの気候風土に似た乾燥した大地を求めて延々と中央アジアを東進して、黄河上流域に到達しますが、そこから先は、洪水地帯であったから東進が停まっただけのことでしょう。
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