12/09/05
ところで何故このように過酷な、しかも共産主義的な法制度が完成し、実行されたか?或いは出来たのかについて疑問のあるところです。
以下はいつものように、私の独断的想像ですが、以前に魏呉蜀3国鼎立時代に人口が6分の1くらいに減ってしまったことを、09/02/05「中国の独自性とは?4(紙の発明)」のコラムで紹介したことがあります。
この極端な人口減が、対外膨張圧力を低下させたと言うより、マイナス気圧になってしまったのです。
中国では現在の人口膨張とは逆の時代があったのです。
この結果塞外からの異民族侵入を招き、結果的に五胡16国時代が到来したのですが、わが国の聖徳太子のころからの独立志向も、天然自然に起きたのではなく、中国の圧力低下をチャンスに!醸成されたものです。
これとの関係ですが、魏呉蜀の三国時代が終わって魏の国が出来たころには、人口減であちこちの耕地が放置されていたので、兵卒にこれを配給して耕やさせる必要に迫られていたのが、屯田の始まりだと言われています。
土地を公給する代わりに、兵役を課す屯田兵の始まりですし、これをまねしたのが明治政府の屯田兵制度です。
とい言いますが、実は古代から西域地域への漢民族の進出は、屯田=植民に頼っていたのです。
その成功例というか長続きした例が高昌国・・トルファンでしょう。
有名な楼蘭も漢民族の灌漑の痕があるといいますし、その後を継いだ「ぜん善国」もそうです。
ちなみに、漢王朝があったから漢民族と言うのだと思う方が多いでしょうが、そうではなくて、灌漑が得意だったので、漢民族と言われるのではないでしょうか?
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