12/01/05
仏教排斥政策を、明治政府が始めたと言うよりも、信長の叡山焼き討ち以降連綿と続く仏教思想弾圧の大きな流れの結果、ついに廃仏毀釈になったと見るべきで、明治政府はとどめを刺した役割を果たしたことになるのでしょう。
信長に限らず、北陸路の一向宗による宗教国家の成立や石山本願寺の抵抗などをみれば、戦国大名と宗教勢力は本質的な敵対関係にあったのです。
戦国期に宗教の影響力が大きすぎた反省から、徳川以降は、宗教的に民心を動員される危険のない儒学を取り入れ、仏教の宗教的影響力をそぐことに勢力を注いで来たといえます。
(家康も地元での宗教勢力の反乱には悩まされ続けたのです。)
キリシタン弾圧も、政治運動に転化する可能性が強かったから、絶対許さなかったに過ぎないともいえるでしょう。
徳川初期には黒衣の宰相と言われた天海僧正とか、沢安和尚などで知られるように仏教界が政治的発言力を持っていましたが、儒学が官学になってからは、急速に仏教界の大物が出なくなるのです。
徳川政権では、仏教その他の宗教団体を寺社奉行の管理下において厳重に管理し、精神的骨抜きに腐心していたのです。
こうして仏教は、葬式などの儀式に専念している限り幕府から睨まれなくなったので、儀式専用になり、厄除けで稼いだり、寺子屋などの教育機関としての生き残りの道に転進していったのです。
法律家の世界では青年法律化協会(青法協)が、政府から睨まれる様になってから、殆どの法律家が、「触らぬものに祟りなし」式に、関係を持たなくなったのと似ています。
こうして、法律家から政治的発言が影を潜めるようになったのです。
青法協攻撃については、08/02/05「平賀書簡問題3(日弁連決議提案理由2)」で紹介しました。
話しを廃仏毀釈に戻しますと、明治政権が王政復古であったことと、仏教は何ら対立する立場ではなかったのですから王政復古と仏教の排斥とは本来何ら関係がなかった筈です。
(これまで書いているように、朝廷は聖徳太子以来仏教を国教化して来たのです。)
神道の重視と言う宗教的視点から見ても、11月29日・・・・・・1「儒教への距離6(神仏習合の基礎1)日本人の感性1」以下で紹介したように、神仏習合が自然におこなわれていたのですから、仏教と神道は両立可能な宗教なのです。
だからこそ殆どのお寺や神社で同居していたのです。
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