12/01/05
儒教的秩序は、江戸時代には社会構造上の無理があったうえに、精神世界でも既に定着していた仏教思想とも相容れられない思想であったことから、日本での定着が阻まれていたことをこれまで書いてきました。
明治政府は、士族だけの規範であった儒教的価値観の強制を庶民にいたるまで始めるのですが、その下地としての自営農民や自営業者の解体による客観的条件作りだけでなく、思想面での妨害者である仏教の弾圧にも乗り出していたように思えます。
武士でもない国民一般にまで、武士の道徳規範を押し付けたのが、明治政府であると言う意見を05/28/03「男尊女卑の思想8(明治の思想1)」前後のコラムで書いて来ました。
「君死に給うことなかれ」という与謝野晶子の詩も、05/28/03・・2「明治の思想2(君死にたまうことなかれ)」のコラムで全文紹介しました。
明治政府は廃仏毀釈したことが有名ですが、これは神道の関係でのみ語られていますが、思想的には、儒学を儒教に昇格し、国民全部に武士道を押し付けるには、仏教が邪魔だったので一種の弾圧をしたのだと私は思っています。
廃仏毀釈とは、明治元年(1868)3月13日、「神主を兼帯していた僧侶に対して還俗する旨の通達」に始る仏教排斥政策であり、以後順次発せられた、太政官布告により主に維新政府を構成していた諸藩などで過激な運動となっていくのです。
この結果全国の約半分のお寺が廃寺になったと言われており、奈良の興福寺に至っては、坊さんみんなが神官となって仏具など廃棄し、燃やしてしまい、あの猿沢の池のほとりの有名な五重塔まで燃やそうとしたところ、近所の庶民が類焼を恐れて反対運動した結果やっと焼却を免れたとさえ言われています。
あんまり無茶苦茶になっていったので政府が逆に沈静化させるのに苦労して行くのです。
この大運動の結果、古美術品の約半分が燃やされたり海外流出したと言われていますが、(勿論紅衛兵みたいな狂信的蛮行で、手当たり次第燃やしたりしたのですから、廃棄された記録など正確なものは残っていません。)明治の大蛮行もいい所です。
アフガンのタリバン勢力による仏像破壊に眉をひそめる人が多いでしょうが、明治政府もそれ以上のことを庶民にけしかけていたのです。
その結果、儒学を儒教にするのには絶対的に邪魔な存在であった仏教は、完全に息の根を止められ、葬式仏教に貶められてしまったのです。
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