12/31/04

塞翁が馬3(里見家と真田家の浮沈2)

信長死亡後の秀吉と柴田勝家・神戸信孝(その後の織田信雄と家康の連合軍との争い・・小牧・長久手の合戦もあります)の後継争いで目の届かないのをいいことに、武田の旧領地(すなわち織田家の領地でした)の甲州、信州で、徳川が、どんどん占領地を広げてていきました。(火事場泥棒と言うのが正確でしょう)
真田家がこれに抵抗し、城下で撃退したこともあります。(徳川対真田の上田城の攻防戦は、関が原のときが2回目でした。)
如何に名将とは言え、地域大国徳川と半永久的に戦えるものではありませんから、真田家は遠くの秀吉に頼んで「私選禁止の命令」を出してもらったのです。
(現在の弁護士の受任通知みたいなものです。)
このとき秀吉は、いつまでも両家が反目するのは良くないと、真田の長子信幸と徳川の重臣本田忠勝の娘との婚姻を斡旋したので、長男信幸のほうは徳川について幕末まで家を守れたと言うわけです。
真田家は、豊臣秀吉の口利きで徳川からの攻撃が停止された恩義があったのと、徳川とは長男が婚姻したとは言え、このとき以来の宿敵であったばかりか、石田光成の盟友、大谷(従五位下)刑部少輔吉継の娘と次男真田幸村の姻戚関係もありました。
関が原では、長男を除いて文句なしに反徳川となった次第です。
中国では「塞翁が馬」の故事で知られ、わが国では「禍福あざなえる縄の如し」と言いますが、里見家は豊臣にひどい目にあった恨みで、関が原では、迷わずに徳川に味方したのです。
その功績で12/08/03「千葉の歴史6(千葉県と江戸時代の知行地・・行政単位)」で紹介したように、関が原戦後、銚子河口の茨城県側の鹿島に3万石を加増されました。
真田(本家)は、歴史的経緯と豊臣の恩義が重たくて、関が原では負ける方に付かざるを得ず、大阪の陣で滅亡したのですから、何が幸いするか人知の及ぶところではないと言うことでしょう。
今年最後のコラムになりましたが、「よしなきこと」を書き綴っている、このコラムをご愛読いただいてありがとう???ございました。
来年以降も、「よしなきこと」の思いつきコラムを継続する予定ですので、宜しくお願いいたします。
また皆様方とともに 「塞翁が馬」の故事に学び
「この1年間良いことがあったと思う人も気を緩めず、悪いことがあったと思う人も、良いことの伏線になるものと思って、明るい気持ちで今年を締め括り、来る年を迎えましょう。」



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