12/31/04

秀吉の私戦禁止(島津、長曾我部の場合)塞翁が馬2

そのころの豊臣秀吉は、天下人として、自己の領土欲のためではなく「天下の平和実現のために・・・・」という名目で統一を進めていました。
小田原・北條氏もその線で秀吉への「臣下の礼」(秀吉の秩序に従う)をとるように勧められたのに、時代の流れを理解できなかった北條氏は、最後は徳川が何とかとりなしてくれるだろうと言う甘い考えで、周辺と干戈を交えて応じなかったので、「まつろわぬ者」として征伐になったものです。
同様に九州を次々攻略して北上していた島津、四国全土の占領をしてしまった長曾我部も、同じ理由で、拡張した領土を没収されています。
秀吉は、そのころから「私戦禁止」の思想を明らかにしていましたし、私欲のための小田原攻めでないというパフォーマンスもあって、(三河を取り上げましたが)その領土そっくりを徳川に譲ったともいえるのです。
小田原よりも遠くにあった里見は、その意味を小田原北條以上に理解できなかったところから、領土没収になったのですが、里見氏にとっては、豊臣には恨みこそあれ恩顧はありませんから、関が原に際して迷わず徳川方に付いたゆえんです。
真偽の程は分りませんが、「このとき徳川家康が豊臣秀吉にとりなしてくれて、この程度の処分で済んだ」と、どこかで読んだことがあります。
他方真田家の場合は、この私戦禁止のお陰で助かった方でした。



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