12/30/04

転勤族の心2(大多喜城主の変遷1)里見氏の誤算

12月29日・・・1[兵農分離5(会津の領主移動の歴史と転勤族)]のコラムで紹介したとおり、領主がくるくる変わる状態で保科家が会津に移っていますので、会津藩士(保科家主従)は上下ともに、また、すぐにどこかに「領地替えするかもしれない」と言う転勤族の心構えで、赴任した可能性があります。
千葉の佐倉藩主が、幕末までの僅かな間に、14家も入れ替わっていることを12/07/03「千葉の歴史5(千葉県人と海洋史観2) 」のコラムで紹介しましたが、それは佐倉藩だけの特殊性ではないかと思う方もいると思いますが、
転封するには受け入れる相手も、あるいは自分の出た跡に入る大名も必要ですから、みんなでグルグル廻るもので、佐倉藩だけの特殊性ではあり得ません。
念のために、同じく千葉県大多喜城主の変遷を紹介しておきましょう。
大多喜城は、里見八犬伝で有名な里見氏の配下正木氏の城でしたが、里見氏の後継者を巡る争いに負けてから、里見氏の直轄領となっていたのです。
天正18(1590)年の秀吉による北条氏討伐に際し、里見氏はこれに呼応して小田原に向かったのですが、途中北條方の枝城が抵抗したので、小田原に駆けつけるのが遅れ、これを秀吉に咎められて、戦後里見氏の上総領が没収されてしまったのです。
殆ど言いがかりみたいですが、戦にあたっては、いち早く駆けつけるかどうかが、忠誠心の発露として重視されていましたから、(「イザ、鎌倉」と言う精神が脈々と受け継がれていたのです。)理由はどうであれ、遅れるとそれ自体が罪になった時代でもあったのです。
遅参と言えば、伊達政宗の遅参を巡る秀吉とのやり取りは有名ですが、去就に迷って遅れた伊達が許されたのに対し、里見氏は「宿敵北條を討つチャンス」とばかり、迷わず参戦したのに逆に従来の領土の大半を没収されてしまいました。
上杉謙信などの時代には、幕下に馳せ参じた各土豪はある程度自由なものでしたが、信長やその流れを汲む秀吉の戦では、参加した以上は総大将のために能率よく戦うのが絶対至上命令であって、自分の利益のために少しでも行動すると容赦なく処罰されていたのです。
里見は、関東平野の片隅で、長年北條と孤独に戦っていたばかりで、目上の大大名や信長や秀吉の幕僚として戦ったことがないので、新時代の連合軍に参加した場合の出処進退に馴れていなかったこともあるでしょう。
第二次大戦の連合軍でもそうですが、それほど上下関係がない場合、中東欧、ドイツで米ソそれぞれの占領地が大戦後の支配地になったのと同じで、既得権の思想は古来から現在まで間違ってはいないのです。
里見は北條と近接していたばかりに、(遠くから参加した武将は、本国とはなれた飛び地を持っても仕方ないのでそういう気持ちが生じなかったでしょう)自前の領土欲が先に走り、既得権を主張するために順次北條の枝城を落としながら、進んだのが秀吉の怒りを買ったのです。



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