12/29/04
兵農分離5(会津の領主移動の歴史と転勤族)
会津地域の領主の変遷を少し紹介しておきますと、芦名氏から戦国末に伊達政宗が領するようになっていたのを、1590年に蒲生氏郷の領地となり、ついで、1598年豊臣時代の国替えにより上杉120万石の領地の1部となりましたが、関が原戦後処理で上杉が米沢に小さくなった後を受けて、蒲生氏郷が1601年再び領主として戻りました。
蒲生氏郷が1627年(寛永4年)子供なくて死亡した事から、弟が忠知が家督を継いだものの伊予松山に転封となり、伊予松山から、賎カ岳7本槍の一人として有名な加藤嘉明が40万石で藩主となってきました。
加藤嘉明の子明成のとき、1643年(寛永20年)家老堀主水兄弟との揉め事を理由に改易され、40万石全部が没収となり、そのあとを家光の異母弟保科氏が最上から23万石の藩主となって入ったのです。
保科氏についてはこれまでも、02/06/04「上杉家の悲劇(戦国時代と平和な時代)」のコラムその他で何回も紹介しています。
これが、元禄のころに松平姓となって、そのまま転封がなく幕末まで続く会津松平家の開祖となるのです。
こうして会津松平家は、領主が転転した跡に入った進駐軍でしたから、会津藩士は、戦国以来の地元土豪を糾合したものではあり得ません。
大身の家臣がよそ者ですから、その家来も他から連れてきた兵士が中心ですから、地元密着型兵士・半農半士・・・でなく、純粋のサラリーマン兵ばかりだった可能性があります。
古色蒼然とした観念的な武士道精神や忠義観念に懲り固まった会津の家訓を、05/27/03「男尊女卑の思想7(江戸時代)」のコラムで紹介しました。
地元民や実生活から遊離した日常が、こうした観念的家訓を制定する君主と、それを受け入れやすい家臣団を育成したのでしょう。
都会人の弱さについては、京都や大阪の連隊が弱くてどうにもならないのを嘲笑して、「またも負けたか8連隊、それなら勲章九連隊」とか言う戯れ歌が戦時中流行ったくらいで、都会の兵は弱いので有名です。・・・召集は出身地別の連隊へ出頭する決まりでした。
都会人よりも、信州や甲州の厳しい自然の中で農業に従事していた兵のほうが、強健であったことは歴史上殆ど実証されているのですから、都会人になってサラリーマン化してしまった旗本、御家人が、幕末動乱期にまともに戦えなかったのは当然です。
もしかしたら、 京へ出陣した会津藩兵3000も、人数が多かっただけで、勇猛どころかさして精強でなかった可能性があります。
幕府は実際の戦闘や闘争行為には、半農の郷士出身の浪士隊を募集し、彼ら新撰組に頼らざるを得なかったゆえんでしょう。
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