12/27/04

兵農分離3(外様・戦国大名の場合)兼業農家の歴史1

士農工商分離の続きですが、毛利、島津、伊達、浅野、池田、前田その他戦国以来の大名に対する国替えは出来ませんでしたから、戦国時代以来の半農の武士(国人層)半農商人はそのまま存続していたのです。
こうした事例の一々は書きませんが、(坂本竜馬の家は、酒造業であったことを書きましたが、酒造だけではなく、当時八百屋や米屋は田舎になかったでしょうから自給自足できる程度の農業もやっていたはずです。)戦国大名や国持ち大名の名のある家臣は城下に住むだけでなく、ほかに自分の領地があって、そこには、城に類する館があり、そこに仕える家来は半農半士だったのです。
このころは大分変わりましたが、昭和40年代ころまでは、地方自治体の職員は地元農家の息子が多かったものですが、この名残でしょうか?
彼ら地方自治体の役人は自宅と役所が近いこともあって、休日だけでなく勤務日でも家に帰ると夕方明るいうちは農業に精出していたのですから、中世からの生き方そのままの健康的な生活だったというわけです。
ただし、都庁や23区区役所の役人に限っては江戸時代以降の歴史によって、完全サラリーマンでしたから、その点でもその他地方自治体とは歴史が違うのです。
昭和50年代になると、全国的に県庁や市役所の専業サラリーマン化が進みました。
今では、兼業農家の役人のほうが少ないでしょう。
地方公務員に限らず、日本中が土から完全に離れたサラリーマン社会になると、これまで経験しなかった精神的な問題等々が生じてきたように思います。
これが自宅まで高層マンションになってくると、かなりの頻度で、精神面の問題が多発してくるのではないでしょうか?
12/18/04「流刑(仙台伊達家の場合2・・・[北の零年])千葉の歴史11(勤勉革命の素通りと「野菊のごとき君なりき」)」のコラムで、伊達邦成の家臣は、全員士分を剥奪されたと書きましたが、彼らが半農半士であった実情も(正確に言って武士と認められるのか?)無視できないでしょう。
ただし、彼らは日頃からの農作業経験があったことが、士分の剥奪の言いがかりにされたかも知れませんが、その代わり普段から農作業をしていたので、開拓農民に成り切れたメリットもあったのです。
伊達の開拓民は、伊達市と言う地名になっていることからして、現地への定住に成功出来たようですが、日ごろからの農業経験がものを言ったと思います。
専業(上級)武士の体力は、若いときにスポーツクラブ張りの道場でときどき剣道に励んだくらいでしかないのですから、(中年以降は城勤めで、あまり道場へは通わなかったでしょう)その体力は多寡が知れています。
こうした武士専業の人たちやその家族(都市住民)が、いきなり酷寒の地で開拓に従事できるものではありません。
出来上がった気候の良い農地でさえ、朝から晩まで10日も働けばへたばってしまったでしょう。
彼ら普通の武士やその家族は、半農で日ごろから鍛えていたからこそ、酷寒の地でまともな食事が出来なくとも頑張れたのです。



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