12/22/04

士農工商(兵農分離2)の実際2(江戸は初めからサラリーマン社会だった?)

12/08/03「千葉の歴史6(千葉県と江戸時代の知行地・・行政単位)」のコラムでは、旗本と言えども知行地が細かすぎて、自分で領地に行くことも出来ない様子を紹介しました。
ただし、私の言うのは、大多数を占めた200石前後以下の旗本の話しで、何千石と言う大身旗本は、陣屋支配と言う領地支配をしましたし、08/14/04「旗本とは(与力14)」のコラムで紹介した吉良上野介(4200石)クラスになると、大名ならぬ小名として本格的領地経営をしていたのですが、それはホンの一握りでした。
徳川直臣は、もともと三河から来たので、関東に先祖伝来の土地をもっていないのですから、与えられた領地が近くとも、余程のことがないと農地に手を出すことが出来なかったのですが、それだけではなく距離の問題もあったのです。
三河武士のように小さな社会で、お城から歩いていける程度の場所に小さな領地があれば、お城から帰ると(お昼には帰る習慣でした)好きな人は農業に精出せたのです。
今の東京が規模が大きすぎて通勤地獄になっていて、帰ってから自治会その他の地域活動が出来なくなっているように、徳川が天下を取った後の旗本や御家人は、与えられた領地が遠くはなれた房総半島が大多数でしたから大変です。
当時の徒歩行程では、日帰りまたは1泊しなければ往復できませんが、現地に屋敷を持つほどの規模ではなく、田舎には宿泊施設もないのですから、行くに行けなかったのです。
こうして関東平野では、期せずして兵農分離が完成してしまったのです。
ところが、徳川家にとっての仮想敵国である戦国大名家に対しては、よほどの落ち度がないと国替えを出来ませんでしたので、逆に民兵組織である半農半武士、漁業兼海賊、半農半商工人がそのまま残っていたのです。
その上、各藩の規模は小規模でしたから、お城から帰ると昼から農業に精出したり、非番の日には狩をしたり漁業をしたりする健康な生活が続いたのです。
大藩の場合は、領地の端のほうの人は遠くて旗本と同じだろう思うでしょうが、大身の家臣は自分の領地に館や城を構えていますので、その家来にとっては結局同じです。
それが、幕末長州の力士隊、奇兵隊に繋がっていくのだと思います。
徳川支配地においては、結果的に転勤族の武士とそれ以外となって、(江戸に限らず大阪や、甲府でも「勤番侍」と言う形で転勤族だったのです)士、農が先ず分れ、次いで江戸や京、大阪の大都市化によって、工と商も分離していったようです。
田舎に比べて大都会のほうが、よろず屋からの専門店化が早いのと同じ現象です。
我々弁護士もこれから専門化の時代と言われても、田舎の弁護士は専門化したのでは食べていけないのと同じです。



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