12/21/04
士農工商(兵農分離)の実際1
兵農分離は、支配者にとっては都合のよい論理ですから、天下人になった豊臣政権が考え出した画期的な試みですが、次の支配者になった徳川が自分自身だけ実行した結果になったのですから皮肉なものです。
豊臣秀吉が、後北条の領地を徳川家に与えて、見た目の領土を何倍増にする餌で、三河の地盤から武士団を切り離したのは徳川の基礎力の弱体化を計る長期的計画だったのです。
その前に自分が先に死んだので、その効果が出ませんでしたが・・・・・幕末になって効果が現れたのですから、遠大な計画でした。
今でもイラクその他の紛争地域を見ると、イザとなれば根無し草の正規軍よりも民兵の方がしぶとく戦いますし、頼りがいがありそうです。
豊臣秀吉は、先祖伝来の強固な地盤を持たない自分の弱点をカバーするために、最大の仮想敵である徳川家や上杉に対して、国替えによる地盤から切り離しを狙ったものです。
関が原後の毛利に対する徳川による処分が、本拠地の広島周辺に領土を残さず、毛利家にとっての占領地でしかない防長2州に閉じ込めたのも同じ理由でしょう。
毛利家の家臣団が萩について行ったので、広島から移住した武士に限り、兵農分離が強制されたのです。
秀吉による国替えによる兵農分離策は、敵対者に対するものだったのですが、徳川は天下を取ってからも、自分の家臣団にだけこれを適用して国替えを繰り返したのは、アホだったのか?不思議な結果でした。
多分、家臣が地元に根付いて強大になり過ぎる危険・謀反を恐れたのでしょう。
08/21/04「江戸の治安対策2(親藩、譜代、外様の区別の実際1)」前後のコラムにも書きましたが、徳川家は自己保全のために外様、譜代の別なく、関八州には大きな大名を配置しなかったのもその一環です。
徳川直属の武士団すなわち譜代大名や旗本御家人は、こうして知行地と切り離されてフランスの宮廷貴族みたいになってしまい、弱体化したのです。(幕末には戦闘力を失ったゆえんでしょう)
12/07/03「千葉の歴史5(千葉県人と海洋史観2) 」で佐倉藩が、幕末までの間に藩主がなんと!14回も入れ替わったことを紹介しましたが、これではめまぐるしくて落ち着いて政治も出来ません。
現在メーカーが、各地設立している販社の社長が、子会社から子会社へ転勤して廻るみたいですから、サラリーマン社長ならぬサラリーマン大名になったのです。
こうして譜代大名(鉢植え大名)は、しょっちゅう国替えがあったので、その家臣もみんなサラリーマン化し、武士と農民は完全に切り離されてしまったのです。
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