12/20/04
千葉の歴史13(千葉県人とは1)紀州移民1(開発者の身分は)?
ここで、千葉県人の成り立ちを少し考えてみましょう。
千葉県でも銚子を中心とする地域は、江戸時代初期に、紀州の田辺あたりから漁港開発業者(名前は忘れましたが、歴史上有名な鴻池の小型版と言うところでしょうか?)が来て開発したのが始まりだといわれています。
開発業者の氏素性は、どういうものでしょうか?
銚子漁港開発者になった人物は、有名なところを引き合いにすれば、豊臣秀吉がまだ足軽身分当時に世話になった蜂須賀小六みたいな親分だったと思います。
当時は電話などの通信手段がないので、1度出かければ途中船が難破して(ジョン万次郎のように)アラスカ、あるいはオロシアあたりまで漂流してるのかどうか、本国ではまったく分らなかったのですから、今でいえば、アラブあたりに出張していってプラント工事をやるより大変だったでしょう。
資金力(岩場のせまった天然の良好でなく、利根川河口の掘削工事です)人力しかない時代に港を掘削するには、膨大な資金力が必要なのは当然ですが、それだけではなく、こうした不安を乗り切るには信頼に基づく統率力の方が必要だったでしょう。
ただの豪農とか網元や商人では出来ないので、私は蜂須賀小六のような人物を想定しているのです。
・・・江戸時代は、士農工商の身分区別がしっかりしていたと言いますが、それは徳川直割領内だけであって、地方では、豪農、網元、郷士、豪族、地侍などの区別がはっきりしなかったように、私は考えています。
特に仙台伊達家、紀州家、水戸家その他島津、前田等の戦国大名の後裔など大大名では、家来筋でも城またはこれに類する館を構え、そのまた家来筋になってくると半農のまま主君に仕えるパターンが、戦国時代のまま残っていたようです。
徳川家康の生い立ちで有名な三河武士や、坂本竜馬関係の本で紹介されるので有名な長曾家部=土佐の一領具足などの存在は知られていますが、兵農一致関係のパターンは全国どこでもあったのです。
勿論武田軍団や上杉軍団もそうでしたから、戦が長引くとみんな故郷の稲刈りを思い出して、気もそぞろになって戦にならず相互に兵を引きますので、いつも決定的な勝敗が付かずに何回も川中島で合戦をやっていたのです。
戦国時代といえばいつも戦っていたように思うでしょうが、このため軍事行動は、田植えの終わった後、稲刈りまでの間に限られたのです。(高校野球の昔版です)
上杉による小田原攻囲戦も同じで、少し長引くと戦線離脱が起きてきて続けられなかったのです。
こういう時代には、一定期間篭城戦で持ちこたえれば、攻撃側が参ってしまうのですが、この非効率な合戦の繰り返しに終止符を打ったのが信長です。
かれは専門の足軽・傭兵を利用することによって、一年中戦を継続できるようにして、石山寺、浅井長政の小谷城、荒木摂津の守の謀反(有岡城や尼崎城)などに対して、付け城を作って、半永久的に攻めたて包囲し続けたのです。
この点でも革命的でしたし、その結果合戦の都度決定的戦闘が行われるようになって、小競り合いの繰り返しがなくなったので、淘汰が急速に進み天下統一が可能になったのです。
勝ち抜き戦の高校野球と同じで一回負ければ、滅亡して競争から離脱したのですから、簡単になりました。
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