12/19/04
千葉の歴史12(千葉県人の時代感覚)
房総人の時代感覚と言うものを、平安末期からの有名事件を通して見ますと、頼朝が挙兵後すぐに石橋山で敗れて安房の国に逃れてきたのに対し、いち早く呼応したのが千葉氏ですし、これがあってこそ、頼朝が、天下をとれたのです。
このときの千葉氏の動きとその背景については、09/16/04「源平争乱の意義2(貴種と立憲君主政治1)」以下の連載で紹介していますので参照してください。
戦国時代末に房総地域をほぼ支配していた里見氏は、豊臣秀吉の小田原北条攻めにもちゃんと参加し、(北條とは国府台合戦を始めしょっちゅう争っていたのですから当たり前です)滅亡を免れ、さらに関が原でも家康に付いてことなきを得るなど、時代の大きな変わり目に際し、感覚がそれほど遅れていないのがわかります。
房総人は、海の民だからでしょうか?
海の道で言うならば、黒潮が銚子沖で終わるのも、軽視することが出来ないでしょう。
台風であれ何であれ、そのおこぼれくらいは銚子沖まで来るのです。
同じく海岸に面しているものの、銚子から先の隣の常陸の国では、その雄であった佐竹氏が関が原後に、奥州の庄内藩に転封されてしまっていますし、幕末では水戸藩が、反幕ではありましたが、古色蒼然とした攘夷思想に固まっていた周回遅れの思想でしか有りませんでした。
ですから、明治政府になって見ても、水戸藩固有の周回遅れの思想は新政権には重荷になっていただけでしょう。
水戸家は倒幕にはかなり重要な役割を果たしたのに、新政府要人には殆ど採用されませんでした。
陸路でならば、箱根で止まる伝播が、海沿いには銚子まで伝わる構造だったのではないでしょうか?
銚子からは海沿いの伝播ではなく、利根川を遡って野田の醤油まで行ったのではないかという私の仮説(思いつき)です。
勿論幕末では、維新政府に対抗できる大藩がなかったので、担ぎ出されることがなかった運の良さもありますが、東北諸藩と違い、朝敵にもならず、新政府と協調できたところが違います。
こうしたわけで、房総半島の内陸部や、東京湾側は、明治維新を経ても、東北諸藩のように必死の生き残りを考える必要がなかったのですから、またもや、勤勉革命に取り残されたのではないかと思います。
ともかく、箱根以西では、御三家に始まって幕府親藩であろうと譜代であろうと、すぐ新政府側になったのですから、(桑名藩は別格ですが、09/05/04「幕末の政治模様8(幕府の強硬策と慶喜擁立2) 」のコラムで「一会桑政権」として紹介したように、最後の政権を担っていた敵方・・薩長の標的だったから仕方なかったでしょう)彼らは、海洋圧力を十分理解していたと言うのが、私の歴史観です。
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