12/17/04

千葉の歴史10(千葉県人と勤勉革命の素通り6)(仙台伊達家の場合1)

12/11/04地方都市と観光産業3 (千葉の場合)「冬期湛水水田・不耕起農法のふるさと」以下のコラムで千葉県の話が出たついでに、丁度1年前の12/11/03[千葉の歴史9(千葉県人と勤勉革命の素通り5)(会津の悲惨)」の続きを、この機会に書いておきましょう。
流刑の話から、刑罰や裁判の歴史に話が移って、まる1年間横道に逸れていたことになります。
まだまだ裁判の歴史が続きますが、この辺で話をお家断絶、改易、配流に戻しましょう。
江戸時代になってからの大名処罰・改易の場合、徳川家に弓を引いたわけではなく、単に落ち度を言い立てて、領地を取り上げていただけですので、幕府も気が咎めたからでしょうか、幕末会津藩の転封ほどむごい事をしていませんでした。
安房の里見氏が大久保事件に連座して伯耆国倉吉に配流されましたが、捨扶持として一応3万石を与えられていました。(現地病死により廃絶)
徳川による改易旋風については、03/06/04「飛鳥尽きて・・・・(伊達政宗の場合)」のコラムで松平宗家の跡取りでさえ、改易されている例を紹介しましたが、当時は加藤清正の息子、福島正則などいくらも断絶したことはありましたが、まだ人材の流通性がかなりあった事と、家臣には御咎めがないので、減封されれば家臣を簡単に減らせたのです。
それでも、浪人問題(失業)が発生して治安上問題になってきたので、(由井正雪の乱など)大名取り潰し策は、次第になくなりました。
幕末の会津や伊達家の場合は、現に戦ってしまった結果の降伏ですから、藩士まで賊軍と言うわけで、大変でした。
1人2人の流刑なら、現地人の好意や親族の仕送りで何とかなることもありますが、会津藩のようにまとまった人数(1万7000人と言われています。)が行くと、見かねた隣の人が粥を恵んでくれるという程度を、超えているのですから大変なことでした。
ともかく自分で開拓して食物を作り出すしかないのですが、流された先が肥沃で豊かな地でも、作物が出来るまでには年数がかかります。
会津藩のように当時最果ての青森県の未開拓の地にやられると、殆ど絶望的です。
会津藩ほどではありませんが、北海道に伊達藩の入植地があって、伊達市と言う地名になっているところがあって、ご存知の方が多いと思います。
噴火で有名な有珠山の麓で洞爺湖の近くですので、いつか忘れましたが(20年ほど前のことです。)、家族で洞爺湖畔で何泊かして遊んだときに、当時伊達郡だったか伊達村だったか忘れましたが、そういう地名が有って、私も知ったと言う訳です。
伊達藩の人も、先祖代々の土地を捨てて入植すると言うのは、追い立てられる苦境がなければそんな寒いところへ、大挙して行くわけがないのです。
伊達家全体が、戊辰戦争敗戦の講和で、領地が削減されたときに、伊達藩の一門伊達邦成も、その一環として、2万8千石からただの58石5斗に削減されたのです。
これではいくらなんでも、1700人もいた家来の給与削減では追いつきませんし、しかも家来が全員士分の身分を剥奪されてしまったのです。



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