12/15/04
官僚政治と全国画一サービスの弊 2(意思決定単位の極小化へ)
行政庁(中央官庁)にとっては、全国に中央の威令を行き届かせるためには、形式的平等・画一主義に固執する必要があります。
地方や下位機関の個性的運用・独自性を認めたのでは、上級機関の権威がなくなってしまいます。
しかし「画一的運用が自分のよって立つ基盤だから、これに固執するのです」と、正面から言えば国民の反発を受けるので、「国民等しくサービスを享受できるように」とか何とか耳当たりのいい言葉でごまかしているだけではないでしょうか?
こうした画一主義思想が、末端の役人にまで沁みこんでいて、独自性を発揮しなければならない地方公務員でさえ、出世すればするほど、(上位者には天下りが多いのが原因ですが・・)他自治体の動向はどうか?などに神経質なのです。
こうした価値観にどっぷり浸かった役人が、観光行政を企画するのは無理ではありませんか?
役人と画一行政は本質的なものであって、それ自体非難できないと思います。
なぜかというと一つの課や部単位で考えれば、その課や係りの単位では統一意思で執行するのは必要だからです。
そうした組織体の一員としての訓練をうけている以上は、自分はこう思うからと勝手な行動は許されません。
これからの柔軟な社会を作るためには、その意思統一単位を出来るだけ小さくしていくことではないでしょうか?
旧ソ連のように、指導者が中央で計画して国家統一事業体として行動するのでは、やっていけないことが証明されたのが、ソ連の解体・旧ベルリンの壁の崩壊でしょう。
民主化かどうかではなく、国際競争に勝ち抜けるかどうかという視点から、国内に多様な意見・生き方、多様な行政主体が求められているのです。
それがさしあたり、地方自治体という単位にしていこうとする動きです。
また、シンクタンクとしての大学や研究機関の独自性の発揮のためには、独立行政法人化が進められているのです。
経営効率化というみみっちいことが、目的ではありませんが、文科省などは、そこを履き違えて、儲けるようにして欲しいが、管理だけは手放したくないようです。
多様な自由な生き方を保障する社会は、民主主義社会かどうかではなく、集団が少数単位になって多元的に存在して行けるかどうかではないでしょうか?
民主主義を有り難がる傾向がありますが、民主主義というのは結果的に組織をソビエットのように極大化して行き、結果的に国民を窒息させてしまうものではないでしょうか?
変な意見だと思うでしょうが、官僚機構も内部的には、国民から浮き上がらないように常に下部機関の意見吸い上げに努力しているのです。
下部機関は下部機関で、傘下の関連諸団体の意向を吸い上げるのに必死ですし、こうして全て民主的に運営されているのです。
民主的である限り、いくらでも組織はピラミッド型に肥大して行く傾向があります。
これに対し、民主的吸い上げシステムが完備しないところでは、緩やかな形の支配・すなわち属国ないし、連邦ないし自治共和国みたいに下位の集団自治を認めざるを得なくなるのです。
「ここから先はお宅の集団で自主的に運用してください」となって、箸の上げ下ろしまで微細にわたる運用基準を定めることは出来ません。
これに対し、民主的吸い上げシステムが完備すればするほど、みんなの意見を聞いて決めたのだから、反対意見の方も決まった以上は従ってくださいとなってきます。
ソビエトも東ドイツもみんな民主主義国家だったのです。
同じ民主主義国家の中で、自由主義国家が競争に勝っただけです。
自由主義国家のメリットは、多様な価値観が並立できるところにあるのです。
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