12/12/04

利根川の付け替え(千葉県には河がない?)

利根川の付け替えによって、江戸周辺は水害がなくなったのですが、付け替えられた千葉県では、洪水のときには、印旛沼に逆流し、印旛沼の水位が上がってしまって、周りは水浸しで大変困っていたようです。
そこで、江戸時代には、地元農民染谷源衛門が1724年幕府からのお金と私財を擲って水門設置や、印旛沼の水を花見川に流す運河を作るなど努力したのですが、途中台風による洪水でみんな流されて失敗し、破産してしまったのです。
今でも八千代方面では、染谷姓の資産家が多く住んでいますが、その子孫かもしれません。
その後1785年田沼意次、1843年水野忠邦(このときは、有名な二ノ宮尊徳を起用しています。)と連続挑戦してもうまくいかなかったのです。
戦後1946年近代技術導入で再挑戦して、ようやく、印旛沼と利根川の間に水門を作り花見川に繋ぐのに成功したというのですから、(それでも20年あまりかかったといいます。)大きな川は大変ですよ。
このように書いていくと千葉県は大きな河が有り沼が有り、水田に適したところが多いかと誤解する人が多いでしょうが、そうでもないのです。
地図を見ればお分かりのように、利根川は、県境を流れていて房総半島の大部分は利根川には関係ありませんので、今でも他府県のようには、川の水を灌漑に使えない地域が多いのです。
そのうえ半島ですので、大きな川はありません。
殆どの県では県内を大きな河が流れているのが普通と言うよりも、県庁所在地などの大都会は、大きな河の河口に発達したものが多いのですから、県の中央部を大きな河が流れているものです。
県境を大きな川が流れているのは、全国でも千葉県くらいしかないかもしれませんし、県庁所在に大きな河がないのも千葉県その他数えるほどしかないでしょう。
横浜や神戸も大きな河が有りませんが、開港場から発達した特殊性でしょう。
千葉市は、歴史的に城下町であった訳でもなければ、開港場のように人為的に出来た町でもありません。現在の千葉市は、地域的には佐倉藩とおゆみ藩の国境にあった寒川と言う名の、海にそそぐ段階でも川幅わずかに20メートルほどの文字とおり寒村に有る小さな川のほとりに出来た町です。
昔から国境は、寒村または人里はなれたところが相場です。
私が思うには、安房、上総、下総の3カ国が合併して出来た県(最初から今の県の領域が決まっていたわけでなく、数次の改正で現行の形になったことは別に述べる機会があるでしょう。)ですから、人手型に広がった県域の地理的中心として由緒にかかわらず地理的合理性だけで、この地を県庁所在地にした可能性があります。
水田に話を戻しますと、千葉県は小さな丘陵の集まりですから、そのひだの奥に谷津田というわずかに流れ出してくる水をためて水田にするのが一般的になっているのです。
12/02/03[身近な行楽3(豊かな自然と千葉の歴史2)]で紹介しましたが、この丘陵と谷津田が交互に存在するのが千葉市周辺の風景です。
真冬に散歩しても水田はそのまま水があり、犬がずぶずぶと水田に入って行ったりするので、泥んこになってしまうことがありました。
また春先には、タニシやおたまじゃくしを掬って帰ったものです。
灌漑によるのではないので、稲作が終わったら川かのら入り口を堰き止めるのではなく、冬の間もだらだらと水が湧き出しっぱなしですから、水田跡地は冬でも水が入りっぱなしで放っておくのが普通です。
こうして食糧難の戦後、日本中が冬には野菜や麦を作る時代にも60年近く放りっ放しの農業で来たのです。



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